家系図

虎ヶ岳観音寺コース登山口~河野通直の墓に行ってきた。

  どーもです。sun

虎ヶ岳観音寺コース登山口~河野通直の墓に行ってきた。


 前回の家系図調査で気になっていた“光市の観音寺”

電車で2時間かけて、島田駅へ。train

そして、タクシーで観音寺まで行って探したのだが、“観音寺”というお寺は

存在せず、集落の名前だけが残っているようです。地元の人に聞いても

そのようなお寺は知らないそうです。ただ、タクシーの運ちゃんはこの

お地蔵さんの左側をまっすぐ行けばあると言っていたが・・・、なかった。

≪観音寺集落の目印の石仏≫
P1140830

そして、タクシーで問題の虎ヶ岳観音寺登山口。

ネットでここの登山口から山に登った方のブログに石仏がたくさんあると

書いてあったので、ここに先祖につながるヒントがあるのではと思い、

登ってみることにした。

≪虎ヶ岳観音寺コース登山口≫

P1140837
≪こんな山道でした。軽装で行ったので、少々しんどかった。≫
P1140839
≪石仏の数々。道案内をするが如く山道に沿っていらっしゃいました。≫
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≪虎ヶ岳の案内版≫
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  本当に昔の山道という感じでした。但し、ゴールがどこかよくわからなかった

ので、約30分歩いたところで引き返した。

  そして、約100年前、祖父が住んでいたであろう場所へ再び。

≪光市の水道局のタンク?が目印≫
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≪この裏がお墓≫
P1140874

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≪お墓の入り口にある石仏≫
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≪お墓がたくさんありましたが、河野家のものはありませんでした。
一番古いもので安政の年号(1854~1860年)でしたので、ここのお墓は
比較的新しいものと思われます。≫
P1140880

  推測ですが、やはりその昔、観音寺というお寺がこの辺りにあったのだと

思います。なんらかの理由で、廃寺になり、集落の名前とお墓が残ったと

思います。そして、この地にいた河野家はその観音寺の周りを守る一員では

なかったかと。

≪観音寺集落≫
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≪道端のお地蔵さん≫
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  そして、周防小学校へ。学校の裏の田園地帯。
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  【今回は動画にしてみました。】






  あと、この辺りを散策していたら、山にお墓を発見。近所の人に

許可をもらい、見せてもらいました。

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  守田姓のお墓でしたが、家紋が“河野家”の家紋と一緒でした。
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  この墓のあるところから、周防小学校を撮影。
(真ん中が小学校)
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(拡大。真ん中の木の下が河野通直のお墓です。)
P1140954

  ここから守田一族が河野一族を見守っているのかもしれません。

守田氏と河野氏は古くから血縁関係があったようですが、私の親戚には

いらっしゃいません。

やはり、今回も先祖につながる手掛かりは得られませんでした。

ただ、タクシーの運ちゃんの話ですとこの近くの“立野”には河野姓の方が

たくさんいらっしゃるようなので、次回はこの方面へお墓探索に行ってみようと

思っています。

  なお、この河野通直のお墓について詳しい文献や資料を探しています。

ご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントをよろしくお願い致します。



  では、また。(*゚▽゚)ノ

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【訪問】河野通直の墓

  どーもです。cat


【訪問】河野通直の墓


  実は昨年の10月に調査へ行ったのだが、その頃はブログを書く気が

しなかったので、放置していたが、その後書く気になってきたので、そろそろ。


  その訪問記はまた別途書くとして、今回は河野通直の墓に特化して

書いておこう。

  現在、先祖の墓を探しているのだが、その中で見つけた本の解説が

以下の通り。光市の図書館にあった本の中からの抜粋。




            河野通直の墓

 周防公民館や周防小学校の所在地は、小周防盆地にやや突出した
小丘陵地でこのわずかな丘陵地に、藩政時代には紅葉院・慈眼院の
二ケ寺と熊毛代官所があったところで、小学校裏藪には高さ約1.9メートル
で三重の層塔の河野通直の墓石がある。
 河野氏の祖は越智姓で、伊予国河野郷(現北条市)に高縄城を築き、
河野姓を名乗った。
その後勢力を拡大し、建武の頃(1334)通盛の代には、湯築城(現松山市)
に移り、一族18家からなる大豪族で、伊予国守護職となり、正平9年(1354)
には周防国守護職にもなった。
 通盛の子通遠は周防国の玖珂・熊毛・大島三郡を領し、
応永年間(1394~1427)には、小周防の内勝間村一ノ宮八幡宮を
建立したとされている。それに因み、小周防近辺に土着し、ある者は
守田姓を名乗り、また後には毛利氏に仕え、小周防近辺に給地を
もつ者もあった。
 河野氏の隆盛は、戦国時代の変遷の末、天正13年(1585)湯築城は
豊臣秀吉の四国征伐の大軍に包囲され、多くの武将たちは離反し
孤立無援となった。城主通直は、婚姻友好関係のあった征討軍の
小早川隆景の降伏の勧めに従い、伊予国の全領を明け渡し、
隆景に従属した。
 通直は元来病弱であったため、隆景の領地安芸国竹原(現竹原市)で
療養していたが、天正15年34才で没し、伊予国の河野氏は滅亡した。
隆景は通直の霊を弔うため竹原に長生寺を建立し、小周防近辺の河野氏
と血縁の守田氏は、異郷の地で果てた通直を哀れみ、既存の東光寺を
菩提寺として、法名の紅葉院殿前予州大守一叟宗泉大居士に因み、
寺号を紅葉院と改め、墓石を建てて弔った。

 このお墓は、“光市立周防小学校”の1角にある。


≪光市立周防小学校≫
光市立周防小学校
≪史蹟≫

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≪小学校の周りはのどかな田園地帯≫

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≪お墓の数々≫

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≪河野通直の供養塔・墓≫
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  お墓は見ての通り、荒れ放題。残念なことです。

以前、橋本さんという方のブログには近隣の守田さんという方が

定期的に清掃をしているとのことでしたが、最近ではその形跡は

あまりないようです。

  あと、この近隣には守田姓の方が多かったので、先ほどの本の裏付けに

なるものでした。河野姓は見かけませんでした。


  お墓を調べましたが、河野姓のものはなく、私の5代前の先祖の

河野幸吉につながるものはありませんでした。


Map01


  先日、地図を調べていて気づいたのだが、祖父の生まれた家の

近くに観音寺というのがあった。ネットで色々調べたが、詳細な情報は

なく、不明。ここを訪れた方が石仏がたくさんあると書いてあったので、

きっとお墓もあるにちがいない。

  時間を作って訪ねてみよう。

  では、また。


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ひょっとしたら、ご先祖様(河野家)のお墓かも!?

  どーもです。scissors

ひょっとしたら、ご先祖様(河野家)のお墓かも!?

  なんとなくネットで、“河野 勝間村”で検索をしていたら、こちらの

ホームページを発見。

橋本悟のホームページ

  その中にこんな記事があった。

山口県光市周防小学校近辺    
紅葉院と河野通直の墓の紹介 
   2010-9-4

≪上記ホームページより転載・河野通直氏の墓≫

Photo

2

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『河野通直』(ウィキペディアよりコピペ)

河野 通直(こうの みちなお)は、伊予国の戦国大名河野氏最後の当主。村上通康、もしくは河野通吉の子とも言われるが定かではない。

先代の河野通宣(伊予守、左京大夫)に嗣子が無かったため、その養嗣子となって永禄11年(1568年)に後を継いだ。しかし幼少だったため、成人するまでは実父の通吉が政治を取り仕切った。この頃の河野氏はすでに衰退しきっており、大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した大野直之の乱に苦しんでいたが、毛利氏から援軍を得て、何とか自立を保っていた。

通直は若年の武将ではあったが、人徳厚く、多くの美談を持つ。反乱を繰り返した大野直之は、通直に降伏後その人柄に心従したという。豊臣秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見がまとまらず、小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏した。この際通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。この逸話はいまだ、湯築城跡の石碑に刻まれている。

通直は命こそ助けられたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡してしまった。通直は隆景の本拠地である竹原にて天正15年(1587年)に病死(隆景が通直を弔った墓は竹原に現存)。宍戸元秀の子を後継者とし、養子に迎え、河野通軌と名乗らせた。

これまで通直の実父は通吉と言われてきたが、実母にあたる宍戸隆家の娘についての検証から、村上通康の子として生まれ、その後実母が先代当主である河野通宣に再嫁することで河野家の正当な後継者としての地位を手に入れたとする研究が進んでいる。また、その血縁関係もあり、四国攻め以前から通直政権は毛利氏、小早川氏の強い影響力により支えられていたことも確認されつつある。

  お墓が数多く残っており、ひょっとしたら、私の高祖父の河野友次郎氏

墓があるかもしれない。戸籍では高祖父はこの周防小学校より北西約3km先の

勝間村で亡くなっていると記載されている。(但し、番地不明)

Photo_3

  私はこの河野通直氏の子孫の可能性が高くなってきたようだ。tulip

ただよくわからないのがウィキペデアでは

墓所 広島県竹原市本町の長生寺となっている。

  では、ここに眠る河野通直氏とは・・・?

まだまだ調査をせねばならないだろう。

河野水軍を結ぶ点がひとつ発見できた。

あとは五代前の河野幸吉氏と河野通直氏を結ぶ線の発掘だ。

生活が落ち着いたら、じっくりと調査をしよう。bud

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母方の先祖(重枝家)を辿ってみた!きっと何百年も楠町吉部!?

  どーもです。flair

母方の先祖(重枝家)を辿ってみた!きっと何百年も楠町吉部!?

  先日、実家に戻った時に市役所に行って、母方の除籍簿を入手。

たぶん、重枝家は厚狭郡楠町にたくさんいらっしゃるのだが、私は

母親の実家しか知らないんですね。母親の実家の近所には

重枝写真館や呉服屋があるんですが、どうやら親戚のようです。

きっと祖父母の葬式で会ってるかもしれません。

  戦前から重枝写真館があり、この主人がその昔、宇部市の沼写真館camera

で修業し、楠町で開業したとか。そのため、比較的古い写真が残っている

んですね。3年前に亡くなった祖母のセーラー服姿があったりなんかして

思わず笑ってしまいました。happy01

  では、除籍簿をたどってみよう。

【母方の血筋:重枝家】

(本人)   河野水軍

(母)    氏名は公表しません。

≪住所は山口県厚狭郡吉部村で代々続いていたと思われる≫

(祖父)  重枝敏一        (明治40年・1907年~昭和27年・1952年)

      (祖母)   ツユ子   (大正6年・1917年~平成20年・2008年)

       厚狭郡小野村の油利瀧之進・長女で昭和13年・1938年に婚姻。

(曾祖父) 重枝光吉        (文久元年・1861年~大正3年・1914年)

       明治29年・1896年に伊藤平治郎の養子から重枝家へ復縁。

      (曾祖母)    イ子  (慶応3年・1867年~大正6年・1917年)

       なんと読むのでしょうか?“いこ”さんでしょうか?

       山口県美祢郡真長田村の安永作一養妹で明治34年・1901年

       に婚姻。

(高祖父) 重枝辰吉        (天保3年・1832年~明治25年・1892年)    

      (高祖母)    スミ   (文久2年・1862年~?)

       美祢郡真名村・安永林蔵三女で明治19年・1886年に婚姻。

       曾祖母・イ子さんと同じ安永家より嫁いでいる。親戚か?

・1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により美祢郡に属する村の一つとして誕生。同時に、長田・真名の2村が合併。(ウイキより抜粋)

(高祖父の父)  重枝栄蔵     生没年不明。

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

<重枝家系図のまとめ>

  ①重枝栄蔵

     ②重枝辰吉(栄蔵の長男)----- スミ(妻)

         重枝多吉(辰吉の長男) (安政4年・1857年~昭和7年・1932年)

                           この方が戸主でした。

       ③重枝光吉(辰吉の二男)----イ子(妻)

         重枝壽三郎(辰吉の四男) (明治5年・1872年~?)

         重枝コノ(辰吉の二女)    (明治10年・1877年~?)

           明治36年・1903年に厚狭郡万倉村の伊藤庄太郎と婚姻。

           

  ③重枝光吉(辰吉の二男)----イ子(妻)

     重枝實雄(光吉の長男)  (明治34年・1901年~?)

     重枝キク(光吉の長女)   (明治36年・1903年~大正元年・1912年)

     重枝榮治(光吉の二男)  (明治40年・1907年~大正10年・1922年)

    ④重枝敏一(光吉の三男)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

house<現在の吉部村・重枝家>house

P1020126

P1020127

fuji<河野水軍と母>clover

P1020124

   市役所の除籍簿だけ私より5代先までわかりました。すごいです。

河野家も5代先までわかりました。戸籍法では80年で除籍簿は捨てても

いいことになっていますが、市町村の判断で残しているそうです。

   どなたか重枝家の方で重枝栄蔵につながる家系図・過去帳・文書

などありましたら、教えて下さい。

   取りあえず、コメント下さい。よろしくお願いします。

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先祖の住んでいたところを訪ねてみた!

  どーもです。event

先祖の住んでいたところを訪ねてみた!

  3月8日(月)に山口県光市三井へ行ってきました。

宇部新川駅 → 島田駅 (約2時間)

ここは約90年前に先祖が住んでいたところです。

光市役所で過去の住所から現在どこにあたるかを聞き、

近鉄タクシーを使って、該当の住所へ。

場所は“ひかり苑”よりもっと高い山の中にありました。

<“ひかり苑”から目的地にある石仏>

P1020184

<目的前の貯水タンク>

P1020186

<貯水タンク前>

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<以前、先祖が住んでいたと思われるところ>

P1020190

<小高い丘の上は現在、お墓>

P1020197_2 

  この辺りはお寺に埋葬されるのではなく、自宅近くにお墓があったとか。

そのため、この周辺にお墓を探したが、河野家の墓はついに発見できません

でした。ここを引き払った後、徳山に移住しているし、高祖父の河野友次郎

は近くの勝間村にて死去しているので、そこにお墓があるかもしれない。

  しかし、その勝間村も結構広いし、次回の探索にて発見したい。

  協力してくだっさった近鉄タクシーの村松さん、光市役所のみなさん、

ありがとうございました。   (◎´∀`)ノ

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河野家の家系図について調べています。情報提供求む!

  どーもです。camera

河野家の家系図について調べています。

情報提供求む!

  現在、河野家の家系図を調査しています。

どなたか河野家の方で、河野幸吉氏につながる史料

(文書、分限帳、過去帳)がありましたら、教えて頂ければと

思います。

  【現在までの調査結果】

  (詳細の地番と誕生月日、没月日は省略。敬称略。)

<私の直系祖先>

  河野幸吉(生没年数不明)

    |

  河野友次郎(天保10年・1839年~明治40?年)

          河野幸吉の長男。

          山口県熊毛郡三井村から山口県都濃郡勝間村へ

  

      妻  ヨシ(天保9年・1838年~明治29年・1896年)

          山口県都濃郡勝間村にて死去

      養女 キヌ(明治4年・1871年~没年不明)

          高村茂兵衛の長女。明治25年(1892年)に都濃郡末武北村の

          藤尾源之進と結婚。

      河野為吉(嘉永2年・1849年~大正11年・1922年)

          河野幸吉の三男。

          妻 コメ(嘉永5年・1852年~明治24年・1897年)

            寺尾太助の三女。

          長女 コト(明治11年・1878年~明治42年・1909年)

          二女 ユキ(明治17年・1884年~没年不明)

              明治40年・1907年に熊毛郡浅江村の田村岩三郎

              と結婚。

          三女 タケ(明治21年・1888年~明治26年・1893年)

          養子 津江田俊三(明治26年・1893年~没年不明)

              津江田熊之進の貮男。大正9年・1920年に養子縁組。

              大正11年・1922年に養子縁組を協議離縁。

              協議離縁は為吉の死去に関係がありそうである。

              ちなみに為吉の死亡届はこの方の名前になっている。

    |

  河野國蔵(明治4年・1871年~昭和6年・1931年)

          河野友次郎の長男。

          山口県熊毛郡三井村から

          山口県都濃郡徳山町へ転籍(大正10年・1921年)

          山口県宇部市へ転籍(時期不明)

          明治25年(1892年)に河野為吉の養子となるが、明治27年に

          再度、友次郎のところに復帰している。

     妻 サタ(明治10年・1877年~没年不明)

          福田長蔵とスエの四女。

     長女 タカ(明治29年・1896年~没年不明)

          大正4年・1915年に厚狭郡須恵村の二美登清信と結婚。

     二女 ヒナ(明治33年・1900年~大正4年・1915年)

     三女 シズ(明治36年・1903年~明治40年・1907年)

     四女 ユリエ(大正元年・1912年~大正3年・1914年)

     五女 ヨシコ(大正4年・1916年~没年不明)

         祖父・孝一の生前、よくいらしていたのはこの方だった

         かもしれない。

         祖父そっくりの小柄のおばあさんでした。祖父が亡くなった

         時、既にお体が悪く、葬式には来れないというお話を聞いた

         ことがあります。

     貮男 武雄(大正9年・1921年~没年不明)

         実家の近所に住まれていました。戦争中は中国に従軍していた

         そうです。よく遊んでもらいました。

         私が小学校6年のときに亡くなりました。

    |

  河野孝一(明治40年・1907年~平成元年・1989年)

          河野國蔵の長男。

          山口県都濃郡徳山町へ転籍(大正10年・1921年)

          山口県宇部市へ転籍(昭和12年・1937年)

          宇部魚市場の市場長を昭和40年・1965年までしていた

          そうです。

          家に魚市場からの賞状あり。

      妻 コメ(明治44年・1911年~平成9年・1997年)

          秋定末太郎とトヨの貮女。昭和6年に河野孝一と結婚。

          祖父と祖母はいとこだったと聞いている。しかし、どういう

          血筋のいとこかはわからない。

    |

  河野水軍の父・(氏名公表しません)

      河野孝一の次男。 

   |

  河野水軍(情報希望者)

  先祖の来た道をたどります。どこまでいけるか?

  この調査を機に先祖をさらに大事にしたいと思っています。

お墓の家紋が河野水軍の家紋になっています。ひょっとしたら、関連が

あるかもしれません。今後の展開が楽しみです。

  皆様の情報をお待ちしてます。

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