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河野家の家系図について調べています。情報提供求む!

  どーもです。camera

河野家の家系図について調べています。

情報提供求む!

  現在、河野家の家系図を調査しています。

どなたか河野家の方で、河野幸吉氏につながる史料

(文書、分限帳、過去帳)がありましたら、教えて頂ければと

思います。

  【現在までの調査結果】

  (詳細の地番と誕生月日、没月日は省略。敬称略。)

<私の直系祖先>

  河野幸吉(生没年数不明)

    |

  河野友次郎(天保10年・1839年~明治40?年)

          河野幸吉の長男。

          山口県熊毛郡三井村から山口県都濃郡勝間村へ

  

      妻  ヨシ(天保9年・1838年~明治29年・1896年)

          山口県都濃郡勝間村にて死去

      養女 キヌ(明治4年・1871年~没年不明)

          高村茂兵衛の長女。明治25年(1892年)に都濃郡末武北村の

          藤尾源之進と結婚。

      河野為吉(嘉永2年・1849年~大正11年・1922年)

          河野幸吉の三男。

          妻 コメ(嘉永5年・1852年~明治24年・1897年)

            寺尾太助の三女。

          長女 コト(明治11年・1878年~明治42年・1909年)

          二女 ユキ(明治17年・1884年~没年不明)

              明治40年・1907年に熊毛郡浅江村の田村岩三郎

              と結婚。

          三女 タケ(明治21年・1888年~明治26年・1893年)

          養子 津江田俊三(明治26年・1893年~没年不明)

              津江田熊之進の貮男。大正9年・1920年に養子縁組。

              大正11年・1922年に養子縁組を協議離縁。

              協議離縁は為吉の死去に関係がありそうである。

              ちなみに為吉の死亡届はこの方の名前になっている。

    |

  河野國蔵(明治4年・1871年~昭和6年・1931年)

          河野友次郎の長男。

          山口県熊毛郡三井村から

          山口県都濃郡徳山町へ転籍(大正10年・1921年)

          山口県宇部市へ転籍(時期不明)

          明治25年(1892年)に河野為吉の養子となるが、明治27年に

          再度、友次郎のところに復帰している。

     妻 サタ(明治10年・1877年~没年不明)

          福田長蔵とスエの四女。

     長女 タカ(明治29年・1896年~没年不明)

          大正4年・1915年に厚狭郡須恵村の二美登清信と結婚。

     二女 ヒナ(明治33年・1900年~大正4年・1915年)

     三女 シズ(明治36年・1903年~明治40年・1907年)

     四女 ユリエ(大正元年・1912年~大正3年・1914年)

     五女 ヨシコ(大正4年・1916年~没年不明)

         祖父・孝一の生前、よくいらしていたのはこの方だった

         かもしれない。

         祖父そっくりの小柄のおばあさんでした。祖父が亡くなった

         時、既にお体が悪く、葬式には来れないというお話を聞いた

         ことがあります。

     貮男 武雄(大正9年・1921年~没年不明)

         実家の近所に住まれていました。戦争中は中国に従軍していた

         そうです。よく遊んでもらいました。

         私が小学校6年のときに亡くなりました。

    |

  河野孝一(明治40年・1907年~平成元年・1989年)

          河野國蔵の長男。

          山口県都濃郡徳山町へ転籍(大正10年・1921年)

          山口県宇部市へ転籍(昭和12年・1937年)

          宇部魚市場の市場長を昭和40年・1965年までしていた

          そうです。

          家に魚市場からの賞状あり。

      妻 コメ(明治44年・1911年~平成9年・1997年)

          秋定末太郎とトヨの貮女。昭和6年に河野孝一と結婚。

          祖父と祖母はいとこだったと聞いている。しかし、どういう

          血筋のいとこかはわからない。

    |

  河野水軍の父・(氏名公表しません)

      河野孝一の次男。 

   |

  河野水軍(情報希望者)

  先祖の来た道をたどります。どこまでいけるか?

  この調査を機に先祖をさらに大事にしたいと思っています。

お墓の家紋が河野水軍の家紋になっています。ひょっとしたら、関連が

あるかもしれません。今後の展開が楽しみです。

  皆様の情報をお待ちしてます。

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家系図」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。山口県山口市在住の山笑(さんしょう)と申します。実は僕も河野氏の末裔らしいのです。出身は玖珂郡です。光市には河野氏ゆかりの家が多いと思います。守田姓の方も、河野氏の関係方と聞いたことがありますよ。伊藤博文も河野氏の末裔なんですよね。

投稿: 山笑 | 2010年6月15日 (火) 20時41分

山口県出身です。
河野です。
水軍を名乗るからには、、きっと私たちは御紋も一緒なんだと思います。
お墓をお探しですか?
高野山に本当に大きな敷地(?)で河野家のお墓があります。紋もしっかり刻まれていて、「川野」のお墓も横にあります。

投稿: 河野 | 2011年8月 1日 (月) 01時44分

 こんばんは。
貴重な情報ありがとうございます。
高野山に行く機会がありましたら、探してみます。
また何か情報があれば、教えて下さい。
よろしくお願いします。

投稿: 河野水軍 | 2011年8月 1日 (月) 01時48分

私の母方は河野家でして吉田松陰が祖父の名前、河野誠一郎ヲ付けたと聞いています。か系図のコピーを持っていますが、一遍上人も出てきます。
愛媛県。松山とか大三島に遺跡がたくさん在るようです。 

投稿: 高島 | 2011年12月19日 (月) 16時10分

 友田修司と申します.先祖は山県郡の鉄山師です.私の縁戚と思われる島根県波佐の鉄師友田家の縁戚で河野さんという方がいます.この方の家紋は隅入れ角に揺り三ツ木というめずらしい家紋で,ネット検索によると,戦国武士河野氏の家紋と同じです.
 いろいろおたずねしたいことがございますのでご連絡ください.

投稿: 友田修司 | 2012年1月29日 (日) 17時29分

こんにちは、苗字が河野の者です。
うちは家系図が残っています。
それに載っている最初の名前はたしか「河野通有」か「河野通直」だったと思います。
そして私はその一番下、つまり「ほぼ」本家です。
実はその家系図なのですが、実はレプリカです。本物は私の曽祖父が持っていたのですが、その兄に取られてしまったそうです。いまこの家にあるのは私の祖父が書いた物ですが、そのまま写したので正確です。

投稿: 河野 | 2012年5月18日 (金) 13時43分

 こんばんは。河野です。
いいですね、家系図が残っているというのは。
当家では家系図がないので、除籍簿から5代までさかのぼりました。
 しかし、それ以上のことはわかりません。
江戸時代の河野家系がどのように分散していったかと調べている最中です。
 また、何か情報がありましたら、お知らせください。

投稿: 河野水軍 | 2012年5月20日 (日) 20時01分

こんばんは。
川野と申します
江戸時代に河野から川野になったみたいです
岡山県瀬戸内市に数軒あります。
ルーツを調べていた方がいらっしゃたのですが皆さんご高齢でお亡くなりになっているみたいです。
実は私も家紋が気になって。。。
2個あるのでどちらが正当なのかと悩んでいます

投稿: | 2012年6月30日 (土) 02時45分

おはようございます。
父が愛媛のとある山間出身の河野です。

菩提寺の家系図、地域の記録や江戸時代の藩の記録から元禄の頃までは(おそらく)正確に辿ることができましたが、江戸時代初期から先の記録が途絶えており、この辺が個人で調べる限界かなと感じています。

私のご先祖様は最古の記録の元禄時代にはすでに浄土教系(念仏)を篤く信仰していたようです。その当時から私の祖父の代に到るまで念仏関係に山地寄進を繰り返しており、先祖の寄進に関する記録が数多く残っていました。河野氏であった一遍上人も念仏だし関係があるのかも。

折敷紋に三の家紋、古くから河野氏の家であると伝え聞いてました。

何かの参考になれば。

投稿: 河野 | 2012年7月28日 (土) 05時52分

私も河野と申します。

広島市在住で、島根県金城町出身です。

コメント欄を拝見してちょっと驚いたのでコメントさせていただきます。
島根の実家にも家系図があるのですが、「河野通直」という人の名前が入っています。

もしかしたら、私と先祖が一緒の方かもしれません。。

投稿: 河野(広島在住) | 2013年1月31日 (木) 22時44分

私の母は河野家のでです。家系図にはじめは孝霊(こうれい)天皇の皇子伊予皇子(彦狭鳴尊(ひこさしまのみこと)だ始まり、道直(1588)ーーーー明治9年河野道則 萩で生る などと続いてます。

投稿: たかしま | 2016年1月 6日 (水) 15時31分

始めましてたまたまこのブログを見つけました。
伊予の中世を調べていますので河野家のことは避けて通れません。
河野家は古族ですので子孫は全国に繁茂しています。系図も数え切れないほどの数があります。
山口県の伊予系河野家とその縁族、及び家臣団家も
多くいます。家紋が「傍隅切縮三文字紋」で通字が
「通」で宗派が「禅宗」であればほぼ同族です。

通字が「通」ですから「通直」さんもたくさんいます。河野家最後の当主は牛福通直 その前の通直さんは弾正通直と言い識別用語をつけないと混乱します。宗家でこんな具合ですから分家までいれると大混乱です。今でも河野家の集いがあるそうですがみんな「みっちゃん」なので皆が一斉に返事するそうです。

熊毛郡三井村が江戸期の住所のようですから、資料的には相当残っていると思います。
貴方が除籍簿と表現しているのは「改正原戸籍」の
ことと思われますが、最初の住所が何番屋敷と書かれていますか?
また、寺が見当たらないとしていますが、明治4年に「廃仏毀釈」で廃寺、統合、引寺、改名されている可能性がありますので現地の「廃仏毀釈」関係書を当たれば出てきませんかね。

山口県は日本で最初の「文書館」を創設した位ですから資料は多いのです。

河野家関係資料は相当持ってますが、対象が中世までなので、そのあたりまでならお答えできることが
あるかもしれません。

投稿: 屋代 | 2016年6月 5日 (日) 19時08分

書き忘れました。
伊予河野家の方たちと家臣団が防長(山口県)に移住してくるのは、秀吉の四国征伐により湯月城を明け渡した天正13年と、関ケ原の合戦で西軍総大将の毛利家が敗北した関ケ原の戦いの後の慶長5年~6年が大半となります。

前者を毛利家中では「河野崩れ」後者を小早川隆景が保護していた地名を取って「竹原崩れ」と古文書には記します。崩れと云う言葉は侮蔑した差別用語と現代国語しか知識のない人が怒ることがありますがこれは「敗北のため移動する」との意味だけす。
歴史用語を現代の常識で解釈すると意味が違ってしまいます。

よって貴家も山口県では1600年前後ぐらいまでしかさかのぼれないと思われます。

投稿: 屋代 | 2016年6月 5日 (日) 19時31分

 屋代様
 こんばんは。とても詳しい情報ありがとうございます。
 いろいろと面白いエピソードも紹介いただき、まだまだ勉強不足と感じるところです。

【熊毛郡三井村が江戸期の住所のようですから、資料的には相当残っていると思います。
貴方が除籍簿と表現しているのは「改正原戸籍」の
ことと思われますが、最初の住所が何番屋敷と書かれていますか?】
 こちらのご質問ですが、205番地が為吉、206番地が幸吉の記述になっていまる。旧土地台帳を調べていくという方式でしょうか?
 屋敷についての知識がなかったので、調べてみましたら、現在の地番と異なるとありましたので、私は見当違いの場所を探していたかもしれません。
 大変ありがたいご指摘です。
 今、私が探しているのは、江戸時代のご先祖様の情報です。中世までリンクできるまでの情報をつかみましたら、教えて下さい。
 大まかな流れはやはり、四国征伐と関ヶ原でしたか!そこで散らばっていくんですね。そのどこかの末裔ではないかと考えています。
 江戸時代から中世へ上れればと思っています。
 また、何かの折に情報を頂ければと思います。
 ありがとうございました。

投稿: 河野水軍 | 2016年6月 6日 (月) 20時19分

①熊毛郡三井村は現在の行政区はどこですかね?

その行政区を管轄する市町村役場の教育委員会に
○○頃の地番で○○は現在のどこになりますか?と
問いあわせれば、歴史の好きな係員なら調べてくれます。

②改正原戸籍に「番地」と書いてありますか?「○番屋敷」と書いてありますか?

通常○○番屋敷と書いてあると思うのですが、これは
大区小区時代の名残で、番地は新しい表現となります。

為吉さんと幸吉さんは別々に居を構えていますが隣同士となりますね。この時代は東西南北どちらかから順に番号を振りますからルールが分れば右か左かまではわかります。

尚、近頃の番地は2種類あって、法務省が管轄する地番と言われるもの(権利書等に表示)と総務省が管轄する「住居表示番地」(郵便物が届く場所)とがあります。
通常同一ですが、違う場合もありますので混乱します。平成の大合併により更に異同が広がりました。
統一すれば良いのですが、それぞれ縦割り行政ですから両省とも譲りません。

投稿: 屋代 | 2016年6月 7日 (火) 06時18分

伊予の河野家系列は時代を追うごとに分岐しますので注意が必要です。

①まず元祖が2つに割れます。
 一番多いのが、孝霊天皇の皇子から始まるものです。
次が伊予国造家越智家祖ニギハヤヒを元祖とするものです。

②また、河野家は越智家系と北条系とにまた割れます。

家紋は、時代により変遷します。

①室町中期以前の「古紋」

②室町末期(戦国時代)の「変形古紋」

③江戸期以降の現代「現代紋」

に大別されますが、現在は③が多く、①,②を使用していた家も末裔が早とちりで③に直した例も多くあります。

尚、同一家で歴史のある家の家紋は複数ある場合が多いのです。正紋、裏紋、流紋、幕紋等を使い分ける武家。
又、一門でも本家、分家では家紋を微妙に変形させます。

天皇家は「菊紋」ですが、天皇家と皇太子家と他の皇族とは紋が違います。

毛利家も「一に三ツ星紋」とされますが、本藩と支藩ではすべて紋章が微妙に違います。

投稿: 屋代 | 2016年6月 7日 (火) 06時42分

下記の文章は誰が何に基き書いたものかわかりませんか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            河野通直の墓


 周防公民館や周防小学校の所在地は、小周防盆地にやや突出した
小丘陵地でこのわずかな丘陵地に、藩政時代には紅葉院・慈眼院の
二ケ寺と熊毛代官所があったところで、小学校裏藪には高さ約1.9メートル
で三重の層塔の河野通直の墓石がある。
 河野氏の祖は越智姓で、伊予国河野郷(現北条市)に高縄城を築き、
河野姓を名乗った。
その後勢力を拡大し、建武の頃(1334)通盛の代には、湯築城(現松山市)
に移り、一族18家からなる大豪族で、伊予国守護職となり、正平9年(1354)
には周防国守護職にもなった。
 通盛の子通遠は周防国の玖珂・熊毛・大島三郡を領し、
応永年間(1394~1427)には、小周防の内勝間村一ノ宮八幡宮を
建立したとされている。それに因み、小周防近辺に土着し、ある者は
守田姓を名乗り、また後には毛利氏に仕え、小周防近辺に給地を
もつ者もあった。
 河野氏の隆盛は、戦国時代の変遷の末、天正13年(1585)湯築城は
豊臣秀吉の四国征伐の大軍に包囲され、多くの武将たちは離反し
孤立無援となった。城主通直は、婚姻友好関係のあった征討軍の
小早川隆景の降伏の勧めに従い、伊予国の全領を明け渡し、
隆景に従属した。
 通直は元来病弱であったため、隆景の領地安芸国竹原(現竹原市)で
療養していたが、天正15年34才で没し、伊予国の河野氏は滅亡した。
隆景は通直の霊を弔うため竹原に長生寺を建立し、小周防近辺の河野氏
と血縁の守田氏は、異郷の地で果てた通直を哀れみ、既存の東光寺を
菩提寺として、法名の紅葉院殿前予州大守一叟宗泉大居士に因み、
寺号を紅葉院と改め、墓石を建てて弔った。

投稿: 屋代 | 2016年6月 7日 (火) 11時23分

 屋代様

 こんばんは。更なる情報の提供ありがとうございます。

 まずは下記の質問からお答えいたします。
 ①熊毛郡三井村は現在の行政区はどこですかね?

【回答】  光市になります。

②改正原戸籍に「番地」と書いてありますか?「○番屋敷」と書いてありますか?

【回答】二百五番屋敷、二百六屋敷とあります。
これを元にもう一度、光市役所へ聞いてみることとします。除籍簿を取りに行った時に聞いたのですが、ひょっとしたら、係りの人が地番で答えていたかもしれません。

 伊予の河野家系列はどんどん分岐していますね。
時代が経るごとに分岐してしまうのは仕方のないところ。なんとしても江戸時代の手掛かりを見つけ、中世までつなげたいところです。

 河野通直の墓の記事は、光市の図書館でみつけた
本の中に書いてあったものを書き写しました。
 本の名前は覚えていません。当時、撮影したものが残っていたので、アップします。
 ご参考まで。

http://in-the-river.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2016/06/07/p1130230.jpg
http://in-the-river.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2016/06/07/p1130232.jpg

 今回も大変勉強になりました。ありがとうございます。ここまでの情報を頂けるとは思っておりませんでした。また、何かございましたら、教えて下さい。
 では、また。

投稿: 河野水軍 | 2016年6月 7日 (火) 20時21分

 補足です。

 別の方のブログに「光市 史跡探訪 第1集」とあります。この本だったと思います。

http://blogs.yahoo.co.jp/it1035656/38884622.html

  では、また。

投稿: 河野水軍 | 2016年6月 7日 (火) 20時27分

返信有り難うございます。

光市ですか、なら藩政時代は徳山藩と思われますので徳山図書館に史料があると思いますので、学芸員がいれば調べてくれると思います。

国廣氏の書いたと思われる「河野通直の墓」には混乱が見られますので、俄かに信用はできません。

安芸竹原で死んだ伊予河野家最後の当主、牛福通直
は子供がいなかったでお家は断絶していますから、貴家が牛福通直の子孫とは考えにくいのです。

ただ、中国側でも四国側でも通直の死後養子を立てて家を継いだとする系図がありますので、なんとも言えません。

戦国期の伊予河野家は秀吉に逆らいますので、四国征伐にあい滅ばされ、唯一の願いであったお家再興も秀吉に断られ、絶望した通直は自殺します。

自殺では恰好が悪いので「河野家譜」は鎌倉時代から続く河野家を断絶させて申し訳ないとして、病弱の通直が有馬温泉に湯治に行き高野山に登り、先祖に謝り、そして竹原で病没したと書きますが、
これはまったくの虚構です。

実際は自殺しています。これは長州河野家文書に
記されています。

現在高野山にある河野通直の墓は、通直の死後の翌年、母親が高野山へ建てたもので、墓ではなく供養塔となります。二基ありますが、一つは母親のです。

竹原の長生寺にある通直の墓は、現在在るのは供養塔であり墓ではありません。近頃の案内等はみんな墓としていますが、実際の墓は山崩れで流されてしまい今は田圃の地中でしょう。

光市にある通直墓を守田氏が建てたのであれば、それも墓ではなく供養塔です。写真でみる限り供養塔
の形式ですね。

戒名が「紅葉院殿前予州大守一叟宗泉大居士」とするのは初めてです。誰が付けたのか興味深々です。
この経緯がわかれば話が見えてきます。

竹原の牛福通直の戒名は「長生寺殿月渓園公大禅定門」であり、戒名をとって、小早川隆景は翌年、彼の菩提寺を長生寺と命名し建立します。

もっとも、伊予は伊予で髪を持ち帰り、別の戒名をつけていますので、同一人物で戒名が複数あります。

牛福通直系ではないと仮定すれば、貴家は河野通遠(みちとう)系の可能性が出てきます。

河野通遠は上記の牛福通直から遡ること9代前の河野通治の弟とも子ともされる人物です。
足利尊氏に従い、室町幕府を成立に寄与した人物です。

国廣氏は

『正平9年(1354)
には周防国守護職にもなった。
 通盛の子通遠は周防国の玖珂・熊毛・大島三郡を領し、
応永年間(1394~1427)には、小周防の内勝間村一ノ宮八幡宮を
建立したとされている。それに因み、小周防近辺に土着し、ある者は
守田姓を名乗り、また後には毛利氏に仕え、小周防近辺に給地を
もつ者もあった。』

と書きますが、この出典が知りたいものです。
「山口県文化史年表」は河野家譜を出典とし
【河野通治を北朝の周防守護に補す 【河野家譜】】と書きますが通遠と書きません。

貴家が通遠系列であれば辻褄はあってきます。

ただこの時代は北朝と南朝が入り乱れていますのでどちら側の史料か抑えないと混乱します。

キーワードは守田家ですね。守田本家にどのような古文書や系図が残っているかによりますね。

ただUPされている守田家の墓の紋は「傍折敷算木三文字紋」と見えますので、江戸中期以降の河野家の菩提寺の寺紋ですので、作るときに間違ったものと
思われます。

貴家の家紋はどんな家紋ですか?UPしてもらえればだいたい時期はわかりますが・・・・・。


投稿: 屋代 | 2016年6月 8日 (水) 06時59分

 屋代さん

 こんばんは。ご丁寧な解説ありがとうございます。
 今度、徳山図書館に行って調べてみようと思います。
 私も今までの流れから、河野通遠(みちとう)系の子孫かな?と推測はしていました。
 その裏付けを取るためには、まだまだ調べねばなりません。

 我が家の家紋はこちらになります。
http://in-the-river.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2016/06/09/kamonn01.gif
ちなみに墓は昭和30年代に建てたものなので、
家紋は参考にならないかもしれません。
 墓も曾祖父までのしかわかっておらず、それ以前の墓も亡くなった祖父も知らないようでした。
 墓の場所を突き止めるのが一番近道と思い、光市に何度も探しに行っていました。
 今の所、まだ、見つかっていません。

 これからも多方面から調査をしていきます。
アドバイスよろしくお願いいたします。
 今回もありがとうございました。

投稿: 河野水軍 | 2016年6月 9日 (木) 21時43分

貴家の家紋を確認致しました。

江戸期以降の比較的若い河野家家紋と思われます。
昭和30年代に墓を作る時のらしいですが、その元
となる家紋はありませんか?

例えば昭和30年代以前に作られた「紋付」とか?

通遠の時代からであれば、現在の家紋ではなく、「折敷漢数字三文字紋」か「傍折敷漢数字三文字紋」を伝承するはずなのですが・・・・。

折敷と傍折敷をウイキペディアや河野家子孫の方も
ごちゃまぜにしていますが、デザインは違います。

折敷とは菱形◇です。傍折敷とは◇のそれぞれの角を
切った変形八角形の現在河野家家紋に使用されるものです。よって貴家のは「傍折敷揺れ(波)三文字紋」とされる江戸期以降の新しい河野家家紋となります。戦国中期までは三は「漢数字の三」であり、
末期に末期に算木の三に変化するものと混在を始め
ます。

この両方が使用されているのが、天正16年建立と
される高野山の河野牛福通直の供養塔ですね。

河野家末裔と河野関係者は山口県には相当いますので今後、別ブログの別スレッドを立ち上げますので
そちらにおこし下さい。

立ち上げましたら案内します。

投稿: 屋代 | 2016年6月10日 (金) 06時17分

河野関係が下記ブログの「伊予河野家と屋代島」の
スレッドに立ち上げましたので、ご意見ご質問等は
そちらにどうぞ。
屋代島は河野関係者だらけです。
もっとも周東地区全体もそうですが(笑)


http://8241.teacup.com/kyoudo/bbs

投稿: 屋代 | 2016年6月10日 (金) 17時23分

こんにちは。
祖母の旧姓が河野という名字のものです。
祖母曰く、私は河野水軍の血をひいてるのよーとの事で家系図を見せて貰ったことがあります。
なにぶん古い記憶なもので・・・・・また、確認してコメントさせて頂きます。

投稿: 河野〔広島〕 | 2016年6月16日 (木) 02時08分

 河野〔広島〕様

 おはようございます。コメントありがとうございます。
また、家系図などの情報がわかりましたら、お知らせください。
 お待ちいたしております。

投稿: 河野水軍 | 2016年6月18日 (土) 08時17分

少し前にコメントさせて頂いたものです。
祖母に会う機会があり、確認すると河野道有〔通有〕でした。

祖父は平家の落人からの直系で、不思議な縁でしょ~と、笑っておりました。

投稿: 河野〔広島〕 | 2016年6月22日 (水) 13時39分

広島の河野さんへ

河野通有から後は系図上はどのように書いてありますでしょうか?

誰の時に芸州(広島)へ移動したことになっているかわかりませんか?

投稿: 屋代 | 2016年6月25日 (土) 11時07分

毛利家のお抱えの造り酒屋が6件ほどあり、その内の1つだったということまでは突き止められたのですが、いつから芸州に来たかは突き止められませんでした。すみません(-ω-;)

家系図に関しては直接管理していた曾祖父が亡くなってから所在不明でして・・・・・すみません。
多分どこかにあるのは思うのですが色々多すぎて探し出すのが難しいと思います。
すみません・・・・・。

投稿: 河野〔広島〕 | 2016年6月26日 (日) 19時38分

追記です。
家紋は丸に隅立て四つ目でした。
母方からの女紋は三つ茶の実でした。

投稿: 河野〔広島〕 | 2016年6月26日 (日) 19時56分

横やりすいません…
子供の頃から河野水軍の末裔と言い育てられた者です。
家紋は男は「折敷に角三文字」女は「下がり藤(五三?七?桐)」となっております。素人なのよくわかんないですが、家紋二つあるのって変わってるなと物心ついた時から思ってました。

家系図、祖父が幼少時の頃の叔父が寺で保管して頂いてたものを持ち出し行方不明となるという珍事を聞きましたw

早速本題なのですが、墓は宮崎県日向市にあるのですが、墓石に彫られた過去方の名前が証明になるからと言われておりました。

今度墓参りに帰ったとき、名前をリストアップしようと思います。


投稿: 河野(東京) | 2016年8月 4日 (木) 20時45分

 こんばんは。
 情報提供ありがとうございます。
今度また情報の入手できましたら、教えて下さい。

投稿: 河野水軍 | 2016年8月 5日 (金) 19時18分

東京の河野さんへ

家紋が二つあるのではなく、父親と母親の紋が違うのではないでしょうか?

なら普通です。男は原則、継承した家の紋を使用致します。女は結婚しても実家の紋を使用します。
但し、女の子が生まれたら、その子は父親の紋を使用します。

それ以外で家紋が複数あることは、別に珍しいことではありません。
本来の紋や拝領紋、幕紋や旗紋等複数使い分ける家もあります。主に、公家や武士階級が使い分けていました。

宮崎県や大分県にも伊予(愛媛県)の河野家末裔は沢山います。日向も多かったと記憶します。

伊予河野家は古族ですので全国にいます。

投稿: 屋代 | 2016年8月10日 (水) 19時38分

こんにちは。
伊予のことを調べていて辿り着きました。
私の両祖父母とも愛媛生まれで、親戚中が身内婚。
先祖は、河野家家臣団の戒能、八木、高須賀です。
うち、八木、高須賀は本家流れです。
記録を元に、江戸時代まで遡れました。
そしてさらに河野家も調べていました。

戒能家譜によると、戒能通常が八木を拝領しているので、結局は八木も戒能一族と考えます。戒能家は河野家から分かれたものと考えられています。
戒能の先祖、戒能通盛は通森とも書かれたりしており、漢字はこの時代よく違ったりしているので、戒能通明(戒能家で最初に出てくる名前)が、河野通秋ではないかと考えています。年代も合います。
これは勝手な想像ですけどね(笑)

ところで、屋代さんの書かれている、通直の最後に納得しました!病死と自害とあって、どっちが正しいのかと思っていたのです。戒能通盛も同様に出家したとか自害したとかあり、気になっていました。そう考えると自害なんでしょうね。ありがとうございます。

皆さんのようにちゃんと系図が残っているのが羨ましいです。もう祖父母もいなくて、遡れるのに限界が…(^^;;
唯一祖父が残したものを手掛かりに調べてました。


投稿: 戒能 | 2016年8月28日 (日) 15時51分

戒能さんへ

戒能家も伊予河野家末裔と思われます。
誰から分かれたか、現在の所不明ですが、15世紀あたりの河野家の誰かから分家していったものと思われます。戒能が河野家関係文書に出てくるのは河野
教通(通直)時代が初見と思われます。
教通の弟で養子の通秋は、相続する前に死にますので戒能通明ではないと思います。

一度、「戒能家譜」なるものを拝見したいものです。尚、別ブログで高須賀さんがルーツ探しをしてましたね。

投稿: 屋代 | 2016年9月18日 (日) 05時29分

屋代様

戒能家譜は、東温デジタル資料館の川内町誌の三内の最後の方に略譜ですが載っています。高須賀も同様。
通秋は相続前に亡くなってるのですか!
戒能通明が河野通秋かなあと考えていました。
いつ亡くなったとかの資料は何かあるのでしょうか?

投稿: 戒能 | 2016年9月18日 (日) 12時42分

戒能さんへ

河野通秋逝去は「予陽河野家譜」によると
「寛正五年十月二日 病死」となっています。尚、教通の逝去は明応九年正月二十日となっていますので、通秋は相続前の病死とされます。代わりに家督
を継いだのは河野通宣となります。

「戒能略譜」確認しました。「家譜」ではなく「略譜」でしたね。貴家に「家譜」が秘蔵されているのかと思っていました。残念!

この「略譜」は伊予史談会の写本を転写していますね。ただこの書き物は1680年に庄屋戒能氏が書きまとめたもので、当時の資料を猟集して書いてあるようですね。よって「家譜」の形態をなしていません。おそらくこの時すでに、戒能家に系図が
失われていたからでしょうね。主に「予章記」「予陽河野家譜」や当時の俗本を手本としています。
面白いのは断絶した河野家の再興が秀吉より認められたが、その報を知らせる前に死んだとしてありますね。前後の状況もまったく史実と合いませんが、
1680年当時は俗説ではこのようになっていたことが
分かります。「予陽河野家譜」も同時代に編纂されたものと思いますので、この流布本がベースかと思われます。
「戒能略譜」の筆者は系図はあるとしていますが、数代前の通森にしか言及していませんね。

「河野分限録」の引用も見られますが、この書も俗書の部類ですね。

戒能家は源平合戦、元寇の役でも活躍したとされる
古族ですので、史料はまだあちこちにあると思います。

まず、伊予史談会所蔵の戒能関係文書をすべて見られることをお勧めします。資料上は9種類ありますが、まとまっているのは「戒能資料」でしょう。
①戒能家譜概論、他に、②戒能房子家譜、③戒能本家過去帳等は必須でしょうね。

ところで貴方は「戒能略譜」に出てくる誰の子孫と
なっていますか?

投稿: むーみん | 2016年9月19日 (月) 05時20分

むーみん様

事細かにありがとうございます。
そうなんです、略譜の写本ですね。
ネットで調べられるのはここしか見つからなくて…。

うちには残念ながら系譜はないんです。
ただ、親戚がそれぞれ過去に調べたものなどから、江戸時代くらいまでは遡れます。

母方にも父方にも戒能が先祖にいます。1人は戒能吉次郎という人です。ただこの人がどういう人かまではわかりません。あと弁次郎という人の子供も養子にしています。これも誰かはわかりません。もう1人は戒能の屋敷名間口に住んでいたところの娘コメです。その家の息子には虎太朗、新宅には豊蔵がいたといいます。コメの親兄弟の名前はわかりません。
そして、八木家は本家で、祖父の8代先から分家したとされています。ただ今はその最初の名前もわかりません。位牌があったとあるので、今別の人が本家を継いでるから、そこにあるかもしれません。勝手な想像で、この初代が八木を賜った通常じゃないかと思っています。年代的にもそれほど差がありませんでした。
まだ調べながら検証中です。お墓とかも調べたいと思っています。

戒能の資料を見るには、会員になれば良いのでしょうか(^_^;)
9種類もあるんですか!
それは見てみたいですね〜。

投稿: 戒能 | 2016年9月26日 (月) 01時00分

あ、修正です。もともとの調べでは、コメの実家が戒能だったのですが、のちの調べでこちらも八木家でした。
ただ、コメの縁が戒能だったことはまちがいなく、コメの母の実家が戒能だったと思われます。


管理人様、河野家スレにすみません。

投稿: 戒能 | 2016年9月26日 (月) 08時07分

戒能様

伊予史談会の資料は誰でも見れます。
所蔵は愛媛県立図書館で閲覧できます。
以前はコピーも自由だったのですが、近頃は
原本を痛めるとかで写真撮影に限られているようですので、控えが欲しいのなら、接写できるカメラ持参がよいでしょう。事前に伊予史談会へ問い合わせもよいでしょう。

遠隔地に今いるのであれば、図書館のレファレンスサービスを利用するのもよいでしょう。

尚、戒能家は河野家の一門ですのでこのレスで構わないと思います。

投稿: むーみん | 2016年9月28日 (水) 04時31分

 管理人の河野水軍です。
 どうぞ、こちらで情報交換して下さい。
こちらこそ色々と教えて頂き、ありがとうございます。

投稿: 河野水軍 | 2016年9月30日 (金) 07時52分

愛媛県史に見る戒能氏

戒能氏

 戒能氏は、後世の史料であるが、『河野分限録』に浮穴郡大熊・小手滝・屋森三か所の城主とする。苗字の由来は不明である。河野通之が守護であったころの守護代河野伊豆入道は、戒能氏と考えられる(東寺百合文書・一〇九〇、大徳寺文書・一〇九八、なお『築山本』は、「此時戒能豆州独り国権を執る」と記す)。南北朝期に河野氏から分出した庶流であろう。河野支流別府通定流とする説もある。系譜上で不明なところが多い。なお、名越氏は戒能氏の分かれである(築山本)。永享七年(一四三五)、河野通久が大友持直討伐のため豊後出陣中、かの地で討死すると、幼主犬正丸(のちの教通)を補佐して分国支配にあたったのは、ほかならぬ戒能氏であった。おそらく守護代であったろう。永享七年(一四三五)七月一六日、将軍足利義教は、戒能安房入道あてに御内書を発し、軍勢の発向を命じている(明照寺文書・一二四三)。戦国期にも、河野氏の重臣であった。『河野分限録』に「御家老職五人」のうちに「戒野(能)備前守通森」の名が見え、『南行雑録』にも「河野弾正少弼通直御下(=旗本)之衆」一三人のうちに戒能伊賀守の名があらわれる。室町末期と推定される「伊予湯築古城之図」に「戒能筋」なる通りがあり、戒能氏の屋敷が湯築城下にあったらしい。

投稿: むーみん | 2016年10月 4日 (火) 06時53分

河野支流戒能氏を「愛媛県史」は

河野支流別府通定流説ありと書きます。

河野系図は沢山あってどれが良本かわからないですが、戒能家祖を別府通定とするなら、下記の流れと
思われます。

●河野四郎通信(1155~1223)

●河野(別府)七郎通広
 ↓
●河野(別府)通秀
 ↓
●河野(戒能)八郎通定 【河野戒能家祖】

これが戒能系図冒頭とするなら、河野(戒能)通定
の伯父に一遍上人がいらっしゃることになり、通定の時代の河野惣家は河野対馬守通有となり、通有とともに元寇撃退に九州に出陣していたと考えられます。前の本家が河野別府家とされます。
河野家惣領通有の妻は別府七郎左衛門通久の女(むすめ)とされますので、河野別府戒能家は惣家に
非常に近い立場と思われます。

戒能の名の由来は分らないと「愛媛県史」は書きますが、このころは殆ど地名で同門を区別していましたので別府に住んでいた河野さんから分かれて戒能に屋敷を構えた分家の河野さんが戒能河野と区別され戒能さんと呼ばれるようになったものと思われます。

丁寧に探せば、当時の伊予温泉郡(松山市含む周辺)に戒能の地名があると思います。

投稿: むーみん | 2016年10月 4日 (火) 07時43分

>むーみん様

ありがとうございます。図書館の本、カメラ撮影ができるのですね。愛媛に行くときに、また確認してみます。

あとに書いてくださったのは、「えひめの記憶」のホームページからですね。こちらは全部目を通しました^^; これもありがたい資料ですよね。

http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/search

戒能筋と戒能谷についても、地図と文献から場所も調べ済みですw
ここは絶対行ってみたいと思っています。

投稿: 戒能 | 2016年10月21日 (金) 23時48分

>むーみん様

河野支流別府通定流説、なかなか興味深いですね!
こちらはノーチェックだったので、また調べてみたいと思います。

河野家の系図、確かにややこしいですね。
http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7802

こちらを見ていましたが、また違うのですね。

お返事が遅くなりすみません・・。

投稿: 戒能 | 2016年10月21日 (金) 23時59分

高須賀一族のルーツ探しをしています。むーみんさんには、別サイトで大変お世話になっております。戒能さんのご先祖様にかかわる高須賀の歴史に、とても惹かれます。そもそも高須賀は、戦国時代は河野・戒能氏の家臣であったそうなので、とても由緒や縁を感じます。戒能通森の息女が高須賀へ嫁いでいるとか…。当家は、伊予高須賀一族のうち、江戸時代初期に下総へ土着したと伝わったおりますが、旧川内町史収録の系図から下総の地先祖までの繋がりが今ひとつ良く分かりません。河野・戒能氏との関係や高須賀一族に関する情報などお持ちでしたら是非、ご教示ください。

投稿: 高須賀(千葉県) | 2016年11月 3日 (木) 15時26分

高須賀さん、久しぶりです。
再度、戒能・高須賀を当たりましたが、河内町史以上のものは出てきませんでした。

やはり戒能は河野家支流で、高須賀は清和源氏源頼朝流でしょうね。伊予に来て河野戒能家一統となり戦国期を迎え、天正13年の湯月城落城、そして15年の河野家滅亡より両家とも一家離散が始まりますね。大坂の陣で下総へ行って庄屋を賜ったとする家傳があるなら、大阪の陣に於いては、徳川方へ
付いていたのでしょう。この時代はよくあることです。高須賀家の本家は渡辺家なのでしょう。宇和川
家は渡辺の分家とされますから、兄弟家となりますね。
河内町に於いては、渡辺、高須賀、宇和川、戒能が
庄屋の殆どを占めていますから、本家筋は伊予に残り、次男三男が外に出て行ったものと思われます。
下総の高須賀は伊予を後にしたその一つでしょうね。下総移住の時期が特定できれば、どの殿様に付いて行ったか分かるのですが。関宿藩は殿様がコロコロ変わりますよね。
戒能略譜にヒントがないか見直しましたが、この譜は庄屋の戒能氏が伝承を基に整理したみたいでやはりあちこちに齟齬が見られますので信頼がおけません。色んな俗本から編集されているようで筆者自身
矛盾に気づいてないようです。
例えば、広島県の竹原を高原と書いた本と竹原と正しく書いた本と混在して「家譜」を作成していますので、自家に伝わる情報ではないもので編集されていることが分ります。
高須賀は別サイトでも展開しましょう。

投稿: むーみん | 2016年11月12日 (土) 04時33分

河野通忠と申します。当家は河野通直の子供である通秀の末裔となります。最後の当主河野通直は竹原にて小早川に長生寺へ祀られています。高野山奥の院には供養塔があり、代々河野家と親交の深い高野山上蔵院に過去帳がありましたが火災にて類焼し現在は金剛峯寺と竜泉院に過去帳は残っております。毎年全国河野会と申す組織があり河野家末裔が集まり親交を図っております。また大三島大山祇神社にて大祭が開かれております。当家の系図、甲冑、刀剣は大山祇神社へ寄贈した物が殆どです。山口周防地方の河野家は宗家ではなく毛利へ帰属した河野家であるか別流の河野家です。若しくは家臣団です。血筋は河野とは結びつきが無い方々が大多数です。貴家のご先祖様のお名前は系図には御座いませんでした。残念です。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月13日 (日) 16時00分

河野通忠さん、おいでませ!

河野通直の末裔でらっしゃるようですが、どちらの通直さんでしょうか?

浄居庵通直?、後善応院通直?、竜穏寺殿通直?
(長生寺殿通直・天徳寺殿通直)?、のいづれでしょうか?

尚、伊予守護家河野家は天正15年の牛福通直が没したことで宗家は断絶とされていますが、貴家は惣家流でしょうか?

不勉強ですみません、ご教授願います。

投稿: むーみん | 2016年11月14日 (月) 18時40分

 河野通忠さま

 こんばんは。管理人の河野です。
やはり、そうでしたか。残念です。
 また、何かの機会に色々と教えて頂ければと思います。
 ありがとうございました。

投稿: 河野水軍 | 2016年11月19日 (土) 21時29分

河野水軍さんへ

気落ちする必要はありません。
河野家宗家は天正15年7月最後の宗家の当主牛福通直公の卒去で断絶しました。

よって現在全国に残っている伊予河野家末裔は分家か庶家でしかありません。河野通忠さんが宗家と勘違いしていますが宗家は上記の通り断絶しました。
通直さんは河野家には複数います。宗家の通直は
浄居庵通直、後善応院通直、竜穏寺殿通直
(長生寺殿通直・天徳寺殿通直)、しかいませんが
忠通さんが宗家と云うなら長生寺殿通直しかありません。この通直には子供がいません、ですから宗家が断絶したのです。養子を迎えて家督を継いだとする家は2軒ありますが宗家扱いにはなっていません。家督を正式に継いだと主張するのは来島(久留島)です。家督相続の儀は正式に行われていますが
これを認めないとする一派は牛福通直を担ぎだしました。これには毛利、小早川が手をかします。
長州も安芸も伊予河野家末裔とする家は殆ど一門ですが上記の理由ですべて宗家ではありません。
これは通忠さんちも同様です。

投稿: むーみん | 2016年11月20日 (日) 11時57分

私は芸州河野家の末裔です。山口の河野家と共にお話しいたしましょう。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月20日 (日) 22時01分

私は芸州河野家の末裔です。山口の末裔様とお話しをいたしましょう。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月20日 (日) 22時04分

私は芸州河野家の末裔です。また研究もしております。山口周防の河野家の方々とお話しいたしましょうか

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月20日 (日) 22時08分

長生寺殿通直流で御座います。当家の場合は河野通就と言う方の位牌も高野山にも過去帳がございました。河野家と縁の深い上蔵院は焼失し金剛峯寺と向の竜泉院に過去帳が残っております。離覚院殿前因州太守松厳貞公禅定門 高野於山泰雲院大日碑 河野因幡守通就の位牌があり、系図では河野通直→河野通秀→河野通就となっております。伊予国人衆にも書かれております。また芸藩通誌にも書かれておりました。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月20日 (日) 23時19分

むーみん様

長生寺殿通直には最低でも二人の子供がいた事が新しく解明されています。通勝と通秀の二人です。これは河野家研究家第一人者景浦先生方にも確認致しました。それと伊予国人衆及び高野山金剛峯寺でも確認しております。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月20日 (日) 23時30分

通宣====1519教通子代益丸六郎刑部伊予
  通直15001572通宣子太郎弾正
  晴通====1543通直子伊予通存子?六郎通政
  通範晴通子?平左衛門
  通保通範子伊豆
  通風通保子加賀
  通宣15221581晴通嗣通直子伊予通存子?宗三郎通賢河野四郎伊予左京伊予守護

  通秀通宣子?池原通直子?亀千代?通勝?
  通就====1588通秀子因幡
  通方通秀子
  通親通方子三郎左衛門
こちらが現在判明している「伊予国人衆」の一部です。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月21日 (月) 00時21分

 みなさま

 おはようございます。管理人です。
色々と情報を頂き、感謝しております。

 河野家を巡る系譜はわからないことが多いですね。このブログがここまで河野家の交流の場になるとは思ってませんでした。
 河野家の人々が私のブログを通じて、交流や歴史の解明につながれば、これほどうれしいことはありません。
 最近、私は仕事やプライベートが忙しくなかなかこちらのブログに手を掛けれないのが現状です。
 また、暇を見ては自分の家系をたどる旅に出ようと思っています。
 
 皆様、ありがとうございます。

投稿: 河野水軍 | 2016年11月21日 (月) 07時44分

当家の場合明治時代に爵位を貰っており、当時の賜り状がボロボロですが残っております。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月21日 (月) 09時56分

爵位状が残っております。(ボロボロ)ですが!

投稿: 河野通忠 | 2016年11月21日 (月) 09時59分

西園寺公重13171367公宗弟実衡子公衡孫実兼曾孫公相玄孫実氏耳孫公経昆孫実宗仍孫公通雲孫通季裔滋野井公実流竹林院右兵衛大納言右大将左大将内大臣右大臣伊予国主
   実長====1355公重子実茂権中納言
為定公重子

公良実衡子?公宗子?左大臣?永和頃
公俊====1379公良子?実衡子?権大納言
   実房公俊子
公利実房子
   公季公利子
   公家公季子実光子?公兼孫?実俊曾孫?
   実充15101565公家子公季子?実光黒瀬殿左権少将
   公高15381556実充子

   公宣公家子
   公次公宣子公高嗣
   公広15371587公宣子公次嗣西園寺十五将
板島宣久====1580西園寺公宣子板島志摩宣政西園寺十五将
信久宣久子
竹林院実清
公義実清嗣西園寺公宣子深田黒瀬?
実親公義子左衛門右兵衛西園寺十五将
公明西園寺公宣子?竹林院右兵衛深田殿
御荘基明観修寺流兵庫
基詮左馬西園寺十五将
基賢権大夫
越前
土居清時重氏子清氏孫重真曾孫重正玄孫清行耳孫鈴木重家昆孫備中
重時清時子
  重明重時子
  重宗重明子
  清宗重宗子伊豆入道宗雲
  清貞清宗子備中
  清良====1629清貞嗣晴清子式部西園寺十五将
  重清清良子小早川隆景嗣?

  清景清宗子右衛門
  景頼清景子
  晴清清宗子志摩
治清晴清子
久清晴清子
清永清宗子
永治清永子
永法清永子
清家清宗子
清由清宗子
宗明清宗子
宗真清宗子
清治重宗子民部
北之川実定紀式部応永頃
実平実定子永享頃
   実次実次子
実正
実道
実勝

常安実平子?
道安実正子
経安常安子?勝千代
通安常安子紀安芸西園寺十五将
親安====1583通安子経安子?左衛門式部
正親親安子
宗親親安子
綱安通安子経安子?長門?

安直
長安
魚成綱親平姓豊後通親?文明頃
親縄綱親子豊後
  通親親縄子民部豊後
  玄親通親子大和
能親玄親子伊豆
親盛能親子上総
親能親盛子弥五郎上総西園寺十五将
三善春衡康衡子雅衡孫長衡曾孫行衡玄孫行康耳孫為康昆孫為長仍孫仕西園寺公宗
  行豪今小路
行覚
行澄
行弁
行芸
文衡仕西園寺公宗
春範左衛門三河
  春澄左衛門
  春房
  春純
  春義====1579春純子
渡辺政忠越後
  教忠政忠嗣東小路教行子一条房家孫河原淵式部大膳?西園寺十五将
  佐渡河淵
清家氏信新田義興子?
  高信兵庫文明頃
  道治新左衛門文亀頃
法華津範延====1575播磨
   前延範延子清家三郎秋延弥八郎西園寺十五将
   茂右衛門仕伊達
家藤信種監物
越智俊守駿河
  俊義弥三郎
松内景連権太夫
吉田充次
中村永時播磨
上村利信修理
梅本宗信無心
松丸重宗三河
芝 政景一覚
西川政輔美作
  輔胤四郎左衛門
大宿諸正日向
  弘正宮内
中尾坂吉貞釆女
上岡知光玄蕃仕御荘
満倉加賀仕御荘
尾崎藤兵衛仕御荘
公文西俊尚左近
国松俊次土佐
曽根通元神左衛門
通之近江
岩藤繁昌与右衛門岩蔵与右衛門繁正
上高田通宗善介
今正通治兵庫観応頃
薬師寺通之式部入道
石丸勝繁播磨
田口佐之弾正
新田実光蔵人




西方貞泰武茂泰宗子宇都宮景綱孫泰綱曾孫景綱養子豊綱?西方景泰遠江入道宇都宮蓮智 伊予京都守護引付衆内談方寄人
貞宗貞泰子狩野三河入道宇都宮道眼 引付衆伊予守護
綱景貞泰孫宇都宮宗泰子公綱猶子西方遠江貞泰?
綱泰綱景嗣宇都宮宗泰子太郎左衛門
宇都宮豊房武茂時綱嗣宇都宮貞宗孫泰宗曾孫宇都宮景綱玄孫城井頼房子宇都宮景房孫助信曾孫信房玄孫宗房耳孫
   宗泰豊房嗣西方貞泰子宇都宮景綱養子伊予十郎西方遠江
朝宗宗泰子
   泰輔====1445宗泰子左近了泰自輔
   家綱====1478泰輔子左衛門家参明綱
   安綱====1502家綱子左近周防安養綱仙
宣綱====1543安綱子左近蔵人元綱?
   清綱====1543宣綱子左近隆綱?長雲?泰清院綱嶽了玄
   豊綱====1585清綱子遠江蓮翁花公
豊治豊綱子荻野与右衛門
笠間正綱宇都宮清綱子蔵人修理
充綱正綱子左近
義綱充綱子
萩森房綱宇都宮清綱子彦右衛門西園寺十五将
喜清房綱子
正高喜清子
東多田永綱宇都宮流
忠綱
貞綱
伊綱
宣綱石見下木城主
直綱宣綱子三河鎌田城主
厚朴道信宇都宮備前
定信
春信定信子
久枝有綱宇都宮越前
興綱有綱子又左衛門宇都宮左近仕西園寺
真綱
野村乗綱宇都宮左近西園寺十五将
朝立春綱左衛門
兵頭友綱戸塚川関兵衛
  藤右衛門
明坂元光掃部
上甲家次弥兵衛仕宇都宮
光康
貞好伊豆
栗田友親宮内入道宗徳
  正行清左衛門
梶谷景則
  修理
緒方蔵人



河野通盛====1362対馬通忠弟河野通有子通継孫通久曾孫通信玄孫通清耳孫親清昆孫親経仍孫北條親孝雲孫越智為綱裔時高流九郎左衛門通治対馬周防入道善恵「上殿」伊予守護
通時通盛子
  通朝====1365通盛嗣通有子毘沙丸対馬六郎通将遠江「下殿」文和頃
  通堯====1379通朝子直徳丸六郎通直讃岐刑部伊予守護
  通義====1394通堯子亀王丸六郎?九郎通能通運伊予刑部梅岩伊予守護
  通久====1435通義子大正丸四郎通豊?刑部伊予守護
  教通====1500通久子亀王丸四郎九郎通直刑部入道道治伊予守護
  通宣====1519教通子代益丸六郎刑部伊予
  通直15001572通宣子太郎弾正
  晴通====1543通直子伊予通存子?六郎通政
  通範晴通子?平左衛門
  通保通範子伊豆
  通風通保子加賀
  通宣15221581晴通嗣通直子伊予通存子?宗三郎通賢河野四郎伊予左京伊予守護

  通秀通宣子?池原通直子?亀千代?通勝?
  通就====1588通秀子因幡
  通方通秀子
  通親通方子三郎左衛門


  通昌通宣子教通孫
  通長通昌子
  通明通長子
  通縄通明子
  通幸通縄子

通秋通久子教通嗣六郎刑部
  通生通久子教通子?彦六?須保木五郎通成?兵部刑部
通高通生子
  勝生通生子兵部
  明生通生子
  泰生

  通師通堯子刑部次郎

  通里通有子八郎左衛門通郷備前建武頃

通継孫四郎康永頃

元通与三左衛門仕毛利元就
元政====1581元通子
通良元通子
元辰太郎兵衛
通員杢之助
通一====1581

春重左近
就久春重子修理
対馬通貞通忠子河野通有孫対馬三郎五郎左衛門?建武頃
伊予通之河野通堯子細川頼之養子河野鬼王丸六郎対馬 伊予守護
  通元通之子河野六郎民部「予州家」
  通春====1482通元子河野大法師伊予 伊予守護
  通篤====1530通春子河野九郎伊予通元清晃伊予守護
  通存通篤子河野太郎六郎

  通安通春子七郎豊前
  通房通安子九郎仕武田
  通政通房子四郎豊前
  盛政通政子
通利盛政子
直重盛政子
  照長通政子
照盛照長子

通重通之子
通忠通之子
池原通吉====1579河野明生子近江遠江
  通直15641587通吉子河野通宣嗣来島通康子?河野牛福丸四郎伊予兵部伊予守護
  通軌通直嗣宍戸元秀子太郎宍戸景好

  通昭通吉子大蔵
  通許通昭子築山文右衛門
  通護通許子
依通通護子

  通成====1585通吉子兵部
拝志通時通種子河野通有孫得能通綱嗣?六郎今岡左近得能左衛門弾正伊予「予州大将」建武頃
通遠通時子河野通盛猶子得能七郎
彦六通遠子壱岐
通資由並壱岐通賢寄合衆
通貞通種子
今岡通任拝志通種子河野通朝子?今岡四郎刑部通昌通直讃岐建武頃
通弘13701420通任子得能通綱子?河野通義子?拝志通遠子?七郎式部可然応永頃
通厚通弘子三郎
通烈通弘子河野六郎
通定
通秀通定子

通住拝志通時子通種孫
通忠
通次
  通久民部
  通冬民部侍大将
  通祐
  光祐通祐子
  通重通祐子
  通忠民部
通詮

  親任通任子
親通
親吉
吉光
  吉通六郎左衛門下村但馬
野島通茂河野通堯子掃部
  直信河野通存子通宣弟
  吉忠====1600因島尚吉子村上八郎右衛門
  吉国吉忠子因島吉充嗣
松末通氏河野教通子五郎
  通康備後
  通昌美濃
通仲長門
通為美濃侍大将
石川通昌河野通存子晴通弟備中伊予?
  通清====1584通昌子虎千代備中高峠城主
  勝重通清子備中刑部虎武?
  通利勝重子虎竹丸虎武四郎伝兵衛
  源太夫
  越前


得能通綱通村子通純孫通秀曾孫通俊玄孫河野通信耳孫又太郎通縄備前備後通言河野惣領
  通方通綱子又四郎
  通明通方子
  通忠
  通治通綱子土居
  通郷通治子

  信綱通純子又三郎?信縄?
  信通信綱子
  通景信綱子
  通宗
  通勝
  通親

  通能遠江武者奉行
重見通宗通景子得能通純子越後「吉岡殿」
通勝三郎左衛門正平頃
通親因幡
  通実通親子志摩仕河野教通宝徳康正頃
  通昭通親子文明頃
通種通昭子因幡享禄頃
  通繁通種子
通兼通種子
通員通種子
通遠====1530通実子近江
  通次通実子通種嗣美濃
  通晴====1585孫四郎
  通俊通次子孫七郎侍大将
  通遠通昭子

通方得能通弘子通綱孫河野通義孫?因幡
  通友又太郎
通熈寛正頃
元康
今城能光得能流?
能充左衛門
能親肥前「有馬殿」天文頃
能信兵庫能義?天正頃
能興能信子兵庫
能定左衛門西園寺十五将
得居通知
聖運====1572治部
  通之====1597聖運嗣来島通康子通総兄太郎左衛門通久?得居通年
  通久半右衛門
  通光兵庫
  右馬


土居通増通胤弟?通成子河野通継孫彦九郎伊予 備中守護
  通重====1364通増子彦九郎遠江
  通雅通重子通時嗣左衛門九郎通敦
  通勝通雅子式部
  通三通勝子相模
  通安通三嗣河野通生子五郎備中
通武通安子
 通尚通武子伊豆
  通建通尚子兵庫侍大将
  通真通建子
  通利====1579通尚子右馬左馬武者奉行
  通親通武子右衛門

  通季通三子通安子?
  通方通季子近江
  方玄====1574通方子下野
  方貞方玄子孫九郎

  通世通成子弥次郎
  通時通世子彦五郎通村
通永通世子
通敦
通治
通基
通綱
  通元通成子
小倉通房土居通時子
通長通房子
直政
高市治直土居通時子
信治治直子
神宮寺通景土居通成子直景
通家直景子
通豊通家子
井門通知土居流右衛門
義安通知子安左衛門
安長義安子土居通利嗣五郎
宮田盛敦土居通永子
盛時
重基
合田敦信土居通永子
用信


墨俣信有信俊子信盛孫信行曾孫政氏玄孫河野通政耳孫通信昆孫三郎建武頃
別府通高通朝子通広孫河野通信曾孫
通栄
通孝
通興宮内寄合衆

桑原通時通景裔壬生川通倫裔石井通員流河野通清流孫四郎
  久通次郎左衛門
  通忠久通弟孫次郎
通興摂津応永頃
通光壬生川摂津天文頃
通国====1574通興裔壬生川摂津
泰国====1585通国嗣三郎兵衛侍大将

武井通親
信通
貞通宗意

久枝康盛盛資裔北条盛家裔盛親流河野親経流孫四郎建武頃
  信久太郎三郎
興利四郎左衛門入道蔵人?仕細川河野貞治康安頃
掃部
久盛新九郎?蔵人 仕細川和泉下国守護代応永頃
晟祐 仕細川和泉下国守護代宝徳頃
新四郎新蔵人?宝徳頃
筑前 和泉国代官寛正頃
通忠新九郎 和泉下国守護代明応頃
  久盛蔵人?左京和泉下国守護代永正頃
  通倫
  宣盛肥前仕河野侍大将
  与三左衛門天正頃
大内信賢家資子家澄甥家則孫北条盛家曾孫盛親玄孫河野親経耳孫
信俊小三郎
信種又太郎
信泰伊賀侍大将永禄頃
通信石見

義居三郎左衛門
義久内蔵
義直九右衛門
義之義直子六郎兵衛
広次義直嗣坂田貞直子繁右衛門
出渕盛清盛次子盛定孫北条盛家曾孫盛親玄孫
清久
盛行
盛景通員裔河野通有流出淵山城出雲
  近江盛景子
  出雲近江子
盛政出雲子筑前
修理盛政子
盛次修理子仙波平兵衛
盛許盛次子平兵衛
盛忠仙波右衛門
盛胤弥作
盛増仙波平次
盛益
福角家重北条盛家流
  家定
  家資
  五郎
  与四郎

南 通武通泰子河野通有孫建武頃
通方====1582美作通師侍大将
  亀寿丸通方子
  通具通方嗣忽那通著子彦四郎
倉光通忠通村子通兼孫河野通久曾孫
通起
通末
栗上通代通国子通宗曾孫河野通信玄孫
通高
通広但馬
通妙左衛門寄合衆
通宗因幡松前城代寄合衆
通閑但馬入道
中野通宗通行裔河野通信流越前
  通賢通宗子伊予通存子?河野新蔵人豊後通正西園寺十五将
  通氏通賢子弥次郎
  通純通賢子弥三郎


垣生通安遠清裔親遠流遠藤親家裔盛孝流北条親孝流奉行人嘉吉頃
  通住兵庫
盛周加賀寄合衆
山野井清景浅海季清子信季孫頼季曾孫能長玄孫遠藤盛孝耳孫北条親孝昆孫源兵衛
景親左馬
景真源兵衛
真氏源兵衛
氏重
重秀
仲次
景頼加賀
景秀
景重
重久
重次
浅海通智飛騨 伊予守護代?正平頃

正岡経純弘経子頼経孫経兼曾孫経孝玄孫北条康孝耳孫親孝昆孫越智為綱仍孫時高雲孫為時裔太郎太夫尾張幸門城主
経秀弾正左衛門備後元弘頃
経長経秀子十郎尾張入道宗栄正平頃
経義経秀子中務
経久経秀子経長嗣尾張仕伊予通之
昌仲経久子修理
元安昌仲子備後
経成元安子左衛門
経貞経成子丹後
直経経貞嗣河野通直子出雲
通綱直経嗣河野通宣子教通孫丹後経綱通縄通純?
通高通綱子右近一心幸門城主
  経政通綱子通高?右近幸門城主
  忠度経政子
経治経政子半左衛門経成
経則経治子松千代丸源吾源右衛門
経貞経則子松之丞雅楽経忠?丹後
経玄経治子
輝為経綱子
常貞輝為子?
常元常貞子太郎左衛門経元仕福島正則


経貞紀伊
経真
経澄

  通純
  通周

重盛経秀子六郎左衛門雅楽鷹取城主
重久重盛子
重喬重久子
重長重喬子
重光重長子紀伊石山城主
  経長重光嗣重長子経政弟?紀伊重光?鷹取城主
  式部重長子
  重氏====1600式部子式部重武
  重閑式部子出雲重勝
  重元式部子孫左衛門若狭重綱
  重矩重元子三郎因幡玉井四郎左衛門
  重忠重元子出雲
重正重忠子伊織玉井甲斐

盛経弘経子三郎建武頃
経詮
経氏大熊三郎
経春
経遠
経信
経明
経時
経広
経定
経俊式部
黒川通綱通顕子信朝孫信清曾孫信兼玄孫信綱裔弥左衛門美濃
通親通綱子
通兼通親子
通信通兼子
通澄通信子
通朝通澄子
通冬通朝子
  通矩通冬子山城通信
  通俊====1544石鶴丸通敏対馬
  通堯通俊子通冬嗣長宗我部兼序子?備前元春通仁
  通長====1574通博子通堯子?宗太郎
  通博====1584通堯嗣正岡通純子美濃通将侍大将
  通貫====1586通博子太郎丸五右衛門美濃備中
  五右衛門====1600通貫子豊鶴丸称曽我部仕黒田孝高
在次五右衛門子曽我部徳蔵
  金右衛門====1615通貫子称曽我部仕黒田孝高
  通定
  重親====1598民部
  弥七郎重親子加賀
  通親====1620重親子?
  源三郎通親子
  通兼====1570通親子弾正正長
  通広====1593通兼子曽我部新兵衛
  重光====1623通広嗣嘉兵衛曽我部新兵衛
  重房====1632重光子
  重家重房子

通重左近
岡田重遠新太郎
  通時彦五郎
経孝
通孝経孝嗣河野通宣子
通郷通孝子九郎兵衛
通政通郷子
戒能通明
  伊豆入道仕伊予通之伊予守護代
通運伊賀
  通森通運子備前侍大将
  通次通森子藤兵衛
津島通孝越前
  通繁孫右衛門安芸
通顕通繁子弥三郎西園寺十五将
  通親
仙波貞高大炊
  貞俊大炊
  左馬
寺野通弘美濃
高山通貞
高田通成左衛門
  通明神田六右衛門
  通定神田伝右衛門
大西通輔伊豆
通秀弾正
  通良弾正
櫛辺兼氏====1585櫛部出雲
  兼久====1580兼氏子
兼武肥後宣武侍大将
枝松盛和
光栄太郎寄合衆
中川親武山城
通任親武弟常陸侍大将
中 通親
通言石見
山崎経安藤左衛門
中村経孝====1334経実子谷田経孝孫八郎左近
  経重経孝子十郎左衛門主殿
経友経孝子?左衛門
  経武経友嗣福角与五郎子主殿
  経房経武子左衛門主殿
  与左衛門経武子
  房道経房子石山与八郎
  房盛石山主殿




久万定雅勝行子宗行孫安仲曾孫安綱玄孫安雅耳孫雅頼昆孫北条康孝耳孫
義有
定武
武清
成俊
通賢成俊子?武清孫?正岡流
通昌嘉吉頃奉行人
康成熊権兵衛

安清定武子
成清

大野忠直次郎兵衛建武頃
直利直国子直義孫成義曾孫久万成俊玄孫綱頼耳孫直義子?土居弥次郎大野十郎左衛門左近建武頃
直氏直利子土岐頼清子?土居弥六郎宮内大野八郎左衛門?
直詮直氏子十郎左衛門

義直====1379直詮嗣?中川直頼子大野直国孫左衛門次郎直秋左近安芸
  詮義義直嗣中川直頼子弥次郎十郎左衛門
直里詮義子弥次郎
  直鎮直里子宮内
繁直直鎮子宮内安芸宝徳頃
通繁繁直子直詮子?土岐詮直子?四郎次郎宮内
  富直通繁子

綱直繁直子九郎次郎
朝直綱直子通繁子?直家?安芸
利直1493====朝直子紀伊
  友直利直子
直幸友直子

隆直====1595利直子直秀備前
直政隆直子兵庫
直房直政子三郎右衛門是水
  直吉隆直嗣左馬右衛門直幸?
直生直吉子勘右衛門周防
氏重直吉子久太夫
吉乗直吉子三郎左衛門

  直昌利直子朝直子?友直嗣山城
直清直昌子
直棟直清子

  直之利直子上総仕宇都宮豊綱

直郷====1585佐渡
直利弥次郎
貞義====1575源内左衛門

直景直氏子
景武直景子
常興景武子
興陣常興子
景直興陣子
景次景直子
景興景次子
中川直頼====1379大野直国子直義孫成義曾孫久万成俊玄孫綱頼耳孫丹治十郎入道
  直時直頼子今岡左衛門六郎
直遠直頼子中川隼人純阿
  直満直頼子太田九郎次郎直満
立石直澄大野利直子直昌兄三郎兵衛直秀?
  直範直澄子蔵人富永佐渡
  直周直澄子
  直武直澄子因幡
伊賀崎直光大野利直子三郎修理
   直行直光子菅田右衛門
東 直国大野直義子
直武直国子
直次直国子
直勝大野利直子筑前
城戸直仲大野直義子
直俊直仲子
直盛====1574木戸六郎
直宗直盛子新右衛門
直泰大野利直子六郎
今窪直有城戸直仲子
曽根高昌====1556佐々木流左衛門
宣高丹後
高房====1600宣高子孫左衛門兵庫
河内吉行駿河
床崎綱実====1579修理
森 家継伊豆
  家重家継子帯刀
家貞家継子民部
家元家継子三郎兵衛



大祝安親安定弟安胤孫安俊曾孫安住玄孫安昭耳孫安連昆孫安時仍孫安真雲孫彦三郎元弘頃
  安顕建武頃
安用
  安舎安用子
  安高
  安勝日向寄合衆

  安房====1541安用子
  鶴姫15241543安用娘

安任
安貞
安忠

左近
安成====1543左近子
鳥生貞実又三郎
康綱肥前
矢野豊教豊寛子豊純孫豊昔曾孫豊貞玄孫家貞耳孫通家昆孫通貞仍孫清貞雲孫親清裔親貞流
教貞
教時右京応永頃
時貞
教家
時家
家政
家俊
家経
家章
家成
家兼
家広信濃
家春家広子
家則
春常
家連家広子
家宣
家俊

  家成
家業摂津親綱子親家子?民部
家盛主馬仕摂津

高村橘但馬仕津島

新居盛清盛康子蓮心?
  清忠文和頃
越智盛兼
盛重
氏重
菊夜叉丸
信氏右馬
氏増左近
本氏左兵衛
定盛
盛経
道西
時重
宗賢
季氏
重兼
重方
重勝
知重
通重左近
蓮智
秀高
源法
実顕
盛長
盛員盛高子
盛明
空性
氏秀
氏弘
親信
妙心
行経
頼行
行益左衛門
道顕
兼信
盛忠
盛家

貞家観応頃
通員
朝義
通種左衛門
通名
朝康
通貞
朝興
通堯佐渡
通足左近
通門
通秋
通近
通名
通正
通淳
通村大和
通本
通生
通居右馬
通正佐渡
通煕刑部
通相
通泉
通光
通春

実忠
成忠
性通
一木直則左馬
  直盛太郎
水沼興成式部
  左京
  治部
  権左衛門
杉 宣親因幡



忽那重義久重子重俊孫国重曾孫兼平玄孫俊平耳孫親則昆孫親朝仍孫親賢雲孫藤原能信流?怱那孫次郎入道左少弁元弘頃
  重清重義子弥次郎次郎左衛門伊勢
  重勝重清子弾正左衛門美濃正平頃
  親重重清子大炊
  親克親重子弾正
  親茂親克子三郎左衛門
  親信親重子
  通則親信子
  通経親信子六郎次郎六郎左衛門
  通定通経嗣通元子?因幡
  通賢通定子
  通乗通賢子新右衛門伯耆
  通著====1579通乗子式部
  通光通著子
  通好通光子
  通恭====1585通乗子通著嗣新右衛門
  通景通恭子伯耆
  通頼通景子
  通実====1585通乗子四郎兵衛
  通体通賢子
  通光通定子

  義範重義子下野法眼
  重澄久重子
  重頼久重子
重躬重頼子五郎左衛門孫九郎則平
重氏重頼子又三郎四郎兵衛

則久則平子重俊孫
則直則久子
則賢則直子
則嗣則久子
則重則久子
則吉則平子
親重重平子重俊孫

性俊実重子通重孫国重曾孫
清重遠重子重康孫国重曾孫
親康康久子重康孫



能島義顕13861458村上師清嗣義胤子義信孫師貞曾孫山城吉顕
  雅房14311515義顕子山城
  隆勝14771527雅房子山城
  義雅隆勝子
  義益義雅子?隆勝子?宮内

  義忠隆勝子掃部
  武吉15331604義忠子義益嗣大和掃部武慶
  元吉====1600武吉子少輔太郎掃部
  元武元吉子
  就武元武子
  吉勝就武子
  就義
  景親15571610武吉子三郎兵衛仕小早川隆景
  八助景親子
  元信景親子七郎右衛門
  就親元信子
  景信就親子
氏長元信子与右衛門角右衛門
種政武吉子
義種種政子
  
  隆重隆勝子宗勝笠岡掃部
  景広15541627隆重子少輔五郎八郎左衛門弾正仕小早川隆景細川忠興
  景則景広子仕堀田毛利
  景武景広子
  吉種隆重子景広兄東右近

  範重雅房子
範定範重子
就常範定子
就武就常子
範和範重子
範信範和子
和員範和子
  
  顕吉山城
  武満刑部
因島吉豊村上師清子義胤子?能島義顕子?又三郎顕長
  吉資吉豊子国重備中村上治部?
  吉充吉資子又三郎?吉満吉光義允備中備前?弘治頃
  吉直吉充子新蔵人加賀長崎城主
  尚吉吉充子吉直子?新蔵人
  吉充15341608尚吉子亮康子?新蔵人備中
  景康====1587吉充嗣亮康子
  吉亮====1596吉充嗣亮康子吉祐?新左衛門
  元充吉亮子
  就貫元充子

  吉忠尚吉子内匠?
  吉国吉忠子大炊
  朝国吉国子
  亮康15341608尚吉子左衛門祐康蔵人
  隆吉尚吉子
  元吉1566====隆吉子喜兵衛
  吉房丹後
  吉之備前弘治頃

  弘正信濃
来島吉房村上師清子義胤子?能島義顕子?顕忠二郎通忠
  吉元吉房子
  康吉吉元子丹後
  通康15191567康吉子河野通直子?河野右衛門通昌出雲
  通総15611597通康子牛松丸助兵衛従五位下出雲
  通則通総子
  康親15821612通総子長親
  通春康親子
  通清通春子
  義清通清子

  吉清通康子彦右衛門通清義清
通量吉清子
通安吉清子
通義吉清子
百島吉房因島吉充子丹後義房
  吉高====1580吉房子内蔵
  高吉15331597吉高子
  吉郷吉房子越後
  吉継吉房子助右衛門河内
  景房吉継孫
島 吉勝村上信清子義弘孫
吉兼
吉久
吉利越前
吉知吉利子
吉氏吉利子
吉方吉利子
大浜吉任村上左京仕来島
吉智吉任弟修理
吉繁吉任弟紀左衛門
久我吉利兵衛次郎
千種吉兼三郎
北畠吉成大膳
工藤経泰伊勢
原 豊前
  備後
  六郎左衛門
  下総
宮地弘躬
  明光
  資弘
片山連総数馬




平岡資元溝杭資政子
資高源五郎対馬
資房左兵衛
頼房民部下総
房景采女文安応仁頃
房近房景子大和応仁頃
房世房近子下総?荏原城主?文明頃
  房実15131572房世子大和
  通房房実子遠江通倚侍大将
  通長通房子治部
  直房房実子通房嗣善兵衛善右衛門
  就房直房子
  就次
  通寛三右衛門
  通資房実子通房兄宮内
  房峯房実子左近
  孫右衛門房実子
  通利近江
  房家伊豆
  右衛門仕福島正則
  六兵衛右衛門子
  通義六兵衛子右衛門

二神種家豊田種秀子藤十郎
吉種
  種直
  家直四郎左衛門
家真
  ■種
通範田兵衛種則
通種
家種
種長家種子
種興家種子
種末家種子

種範通範子
種秀種範子
種重種範子
種正種範子
正種新左衛門天和頃
  家経種直子
  重直豊前
重成修理

和田通俊範長裔?児島流
  通運通俊子?
  通興====1554通俊孫三河
  吉盛====1554通興子河内
  通勝通興嗣山城侍大将
  通繁通勝子右衛門




森山繁範
範直
合田貞遠弥四郎延元頃
  通基応永頃
久保高実伊予正平頃
  照時掃部
政儀因幡
照基修理
照仲出羽
照永因幡帯刀
照次左近
照信左兵衛
好武縫殿

道春織部入道
行吉左衛門
行重修理
正行伊豆
国春美作
行春織部入道
行定井久保源六

大窪家景左近
  実氏弥平次
三吉秀吉長門秀慶
秀勝蔵人
渡辺長綱但馬
松浦正綱
正長
正教
井上重国左衛門
  経盛備後
  元安治部
井関盛景又右衛門


大森盛長盛治弟?行治子治員孫茂治曾孫宇野義治玄孫親治耳孫親弘昆孫源頼治仍孫頼房雲孫頼親裔満仲流彦七 仕河野通盛討楠木正成
  盛家盛長子太郎
  直治盛長孫源左衛門文明頃
盛頼
盛安盛頼孫
盛種盛長裔右京
盛光盛種子与右衛門
政英盛光子助兵衛
元直政英子次郎兵衛仕水谷勝直
元英政英嗣松田玄蕃子九郎兵衛

盛治行治子彦次郎次郎左衛門盛清?
頼続盛治子
頼明盛治子
頼直盛治子
頼宗盛治子
宗光頼宗子
光清宗光子長門
光時光清子藤左衛門仕宇喜多秀家
宗武====1669光時子

光治康治子治員孫
遠治康治子
頼房康治子
貞治俊治子頼行孫茂治曾孫
頼氏俊治子
頼重胤治子頼行孫
明治胤治子

  長治基弘子惟康孫行守曾孫頼弘玄孫国頼耳孫惟康昆孫盛義仍孫隆盛雲孫弥八左京延文頃
重直長治子弥八筑後正平頃
惟佐重直子孫八郎隆吉伊豆
惟賢惟佐子彦一基行筑前
徳隆惟賢子弥七基久筑前
隆行徳隆子藤兵衛隆久民部応仁頃
隆基====1591隆行子弥八藤兵衛筑前天文頃
隆景====1596隆基子神六幸秋藤兵衛
隆久隆景子助七郎隆基藤左衛門筑後
正勝====1656隆久嗣隆基孫藤三郎筑前
光隆====1686正勝子文蔵筑後
春直延元頃
宇野通平隼人
家綱民部
為綱家綱弟隼人

職弘====1585隼人
安弘====1585職弘弟掃部




金子康広頼広子広綱孫家忠裔太郎左衛門入道善喜?暦応頃
忠高康広子
  家治忠高子
  家光家治子家広
  信家家光子
  秀道信家子
  師家秀道子
  市正師家子
  元成市正子十郎
  元宅元成子十郎備後
  元孝元宅子専太郎
  毘沙寿丸元宅子
  鍋千代丸元宅子
  新発智丸元宅子
  元春元成子対馬
  家綱元成子
  元信市正子
  貞範秀道子
  家嗣貞範子
  家親家嗣子
  範直家親子
  政景範直子

  光盛十郎入道光善天文頃
真鍋成綱金子流?
兼綱成綱子
孝綱====1556兼綱子近江仕細川元常
家綱====1585孝綱子中村佐渡吉重
安政====1585家綱子中村佐渡
兼綱====1585家綱子孫太郎近江
兼信====1645兼綱子与右衛門仕加藤嘉明
忠綱兼綱子久右衛門
吉綱家綱子長門

兼孝孝綱子松木右京左京?
兼昌兼孝嗣助右衛門
兼之兼昌子宗兵衛

行綱孝綱子勘解由
政綱行綱子越後
亮綱政綱子孫九郎
孫十郎政綱子
孫三郎政綱子

通周大炊天正頃

信藤正国周防応永頃
  正時正国孫

薦田盛秀吉秀子時次子?本庄朝次孫?庄家次曾孫?家長玄孫?阿佐美実久孫?実高曾孫?弘方玄孫?児玉家弘耳孫?左近建武頃
直弘盛秀子弾正左衛門行光入道勝阿
定秀盛秀子九郎三郎左近建武頃
忠弘定秀子刑部左衛門
弘実忠弘子彦太郎
盛種弘実子六郎左衛門
氏弘弘実子兵衛次郎
国種氏弘子修理
実昌国種子六郎左衛門
吉種実昌子修理
則弘吉種子杢左衛門
正弘則弘子孫八郎
康満正弘子孫次郎
調忠康満子六郎左衛門
保弘調忠子弥太郎
定則保弘子善左衛門
定政定則子左次兵衛
定経定政子庄之助
尚元定則子
延雄調忠子
実一調忠子
信之調忠子
元輔調忠子

景共康満子又六

頼尚新四郎 仕細川頼元伊予国衆明徳頃
成道四郎兵衛
義定備中
義純四郎次郎
義清治部大和天正頃
四郎兵衛
市之丞
横尾祐安山城
国信山城天正頃
妻取清次但馬十郎仕細川頼元明徳頃
  友春助左衛門?采女
  光家友春子采女
河上但馬
  安勝但馬子但馬
野田秀之右京
亮秀





上原祐信====1333治部法橋


伊予国人衆です。参考

投稿: 河野通忠 | 2016年11月21日 (月) 12時49分

むーみん様
明治二年(1869)新しい族籍として当家の場合は華族と書かれています。すなわち河野通直の子孫は残っていたとなります。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月21日 (月) 19時38分

河野水軍様

今お持ちの戸籍等を確かめて、華族、士族、平民のいずれかを確認なされば家系は多少判りますよ、明治二年(1869)新しい族籍としてその戸籍をお持ちだろうと思いますので。

投稿: 河野通忠 | 2016年11月21日 (月) 19時45分

河野通忠様

 言っている意味が良く分かりません。
 華族籍になっているから長生寺殿通直の子孫とするのは飛躍と思われます。

少し質問させてください。

①よく分かりませんが明治2年の華族籍とは何を意味していますでしょうか?

明治2年6月17日の太政官布告のことでしょうか?
であるならこれは当時の公卿諸侯の称をすべて「華族」に統一しますとした御触れですが?

②とすれば河野通忠様の家はどこを治めていた諸侯で殿様の名は何と申しますか?

③爵位があるそうですが誰がどの爵位を拝命してますでしょうか?

【伊予国人衆】は単なる国人の羅列で、
 わからないのを「?」としてあると思いますが。

『上蔵院は焼失し金剛峯寺と向の竜泉院に過去帳が残っております。離覚院殿前因州太守松厳貞公禅定門 高野於山泰雲院大日碑 河野因幡守通就の位牌があり、系図では河野通直→河野通秀→河野通就となっております。伊予国人衆にも書かれております。また芸藩通誌にも書かれておりました』

この記事は気になります。
確かに伊予河野惣家が檀家契約を結んだ「上蔵院」
は明治期に焼失しました。しかし文書は隣の親寺の
「金剛三昧院」に残されました。
④竜泉院は初耳です。長生寺殿通直の過去帳は上蔵院過去帳として金剛三昧院に今もある筈ですが。竜泉院にもあるのですか?

⑤芸藩通志のどこに書いてありますでしょうか?

⑥河野通忠さんちは安芸に残ったとされるのでしょうか?

⑦伊予史談会の景浦会長が「牛福通直」に「実子」が二人あったと確認されたのですか?
それはいつの話でしょうか?

分からないことが多くてすみません。

御返事お待ちしております。

 むーみん。


投稿: むーみん | 2016年11月21日 (月) 22時19分

島谷忠佳様

 貴家の系図もしくは伝承はどのようになっていますでしょうか?
 幕末はどこに住んでいましたでしょうか?

 むーみん

投稿: むーみん | 2016年11月21日 (月) 22時28分

むーみんさま

幕末は広島県加計町津波に住んでいました。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 13時35分

島谷忠佳様

 貴家の系図もしくは伝承はどのようになっていますでしょうか?
家紋は「縮折敷三文字紋」でしょうか?

投稿: むーみん | 2016年11月22日 (火) 16時01分

その通りです縮折敷三文字紋です。何か芸藩何某にも記載されているそうです。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 17時03分

広島浅野藩の藩士だったとすれば、河野家最後の当主牛福通直の没後、毛利家の肝煎で宍戸家の男を
通直養子とした家の可能性が高いですが、そのような伝承はありますか?

投稿: むーみん | 2016年11月22日 (火) 19時25分

ハイ。あります。宍戸家との伝承もあります。なぜか宍戸家の墓参りにも参っております。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 20時26分

重見家との血筋があるようです。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 20時30分

思い出しました、芸藩何某かというのは芸藩通誌と言う本です。菩提寺に過去帳もあるようです。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 22時23分

島谷忠佳さんへ

いくつか教えて下さい。

①今でも参る宍戸家の墓の場所と寺院名は分かりませんか?

②重見家は河野家一門ですので血縁があってもおかしくありませんが、どこの居る重見家で名前等は分かりませんか?いつ頃の血縁ですか?

③芸藩通志のどこの部分に書いてありますか?
 また菩提寺の場所と寺院名は分かりませんか?

④家紋が縮折敷三文字紋のようですが、折敷の中の
 三はどんな形をしていますか?

投稿: むーみん | 2016年11月22日 (火) 22時49分

① 広島県安芸太田市甲田町 理窓院です。
② 重見家ではなく吉見家でした。小早川隆景の姪で吉  見広頼の関係です。
③ 芸藩通誌はまだ見ていませんが、加計町津波村のと  ころに記述されているそうです。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 23時21分

加計町は何郡ですか?

投稿: むーみん | 2016年11月22日 (火) 23時32分

以前は広島県山県郡加計町でしたが、今は広島県安芸太田町に変更しています。何か判りそうですか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月22日 (火) 23時55分

折敷の中の三は二つあります。波打ったものと、三のものがあります。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 00時09分

折敷の中の三の一つは漢数字の三ですか?
三本バーの三ですか?
それとも三の左右の長さが全部同じ「算木の三」でしょうか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 06時18分

島谷忠佳さんへ

島谷さんは以前「喫茶室ゆづき」に投稿していた島谷さんですか?
であるなら河野通忠さんと同一ですか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 08時52分

お久しぶりです。以前数回やり取りをさせて貰った島谷で御座います。河野通忠様は多分兄だろうと思います。多分?左右の長さが同じ算木のさんです。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 09時41分

河野通忠様のこれまでの投稿を読んで見ますと兄の自説と合致するものが多々あります。私は浅野藩の関係かな?と思うところが多くあります。宍戸の件は兄はあまり知らないと思いますし、高野山竜泉院のことは正確には龍泉院ですし、金剛峯寺と書いていますがこれも金剛三昧院です。確かに河野通就の過去帳は龍泉院にあると言うことは、小早川、毛利の関係の寺院ですから毛利方に仕えた経緯からだと思います。但し河野と小早川、毛利の関係は深くあったのだろうと推測しております。ご教授お願い致します。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 10時15分

以前にも多分お話し致しました、私の母方は広島三次浅野藩の山田家の自出であるので、この事にも関連するのではと思う次第で御座います。河野、小早川、毛利、浅野と関わりが多々有りますので複雑に頭の中が混沌としております。複雑に入り組んでいますが、私どもの河野家のご先祖様を紐説きたいと思っております。宜しくお願い致します。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 10時43分

以前にも話したと思いますが、牛福通直没後、河野家再興を目指し、毛利・小早川側は宍戸元秀の子、通軌を養子跡取として相続させた形にします。
その孫の通許の時から築山姓を名乗るとされていますね。安芸で通直跡と云うのであればこの筋しか考えられませんが。通軌は長州で死んでいますので、貴家が通軌の子の系統とすれば安芸に残っていてもおかしくはありません。
通軌は相続時の名前と思います。

伊予河野家の末裔は安芸には多いのです。
毛利の本拠地であった吉田の大きな神社の入り口に
「縮折敷三文字紋」を土蔵にデーンと付けた河野さんがいますがご存知ですか?
吉田町誌の「ヘラ彫りの河野家」も同じ河野流と思われます。

貴家は江戸時代を通じて河野姓を名乗っていますか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 11時32分

吉田の河野は知っています。「ヘラ彫りの河野家」も知っています。江戸時代を通じて河野姓を名乗っておりました。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 11時46分

吉田の河野さんは系図をお持ちではありませんでしたか?吉田河野家の由緒はわかりませんか?

貴家は確か系図は取られてしまったとかでしたよね?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 12時10分

ハイ。写しは有りますが亡き祖父が言うには役人や研究家の方々来られてその写しのそれぞれのお名前などに⭕や線を引かれ印章を押印されて帰られたとの事です。それと数個の御位牌を見られていたと言われその中で河野通就の御位牌を興味深くされていたと言っていました。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 12時25分

機会があったので河野通就と言う方の御位牌を持って高野山龍泉院(小早川、毛利に関わる寺院)へ行き過去帳を見せていただきました。また加計町津波には三島神社とかお堂が今も残っており、地域の方に手厚く祀られています。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 12時39分

宍戸家については伊予河野氏の当主河野通軌は宍戸家の出であり、家督は嫡男の宍戸元秀を廃嫡していたため、嫡孫となる宍戸元続に継承したとの事です。詳しい事はよく分かりませんが!

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 13時40分

系図に通直以下の人たちのことをどのように書いてあるのですか?
通直含め、5代程度各代の説明分を含めて教えてもらえませんか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 15時05分

広島三次浅野藩の山田家とは竹原山田を領していた
元小早川家の家臣の山田家の末裔でしょうか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 15時36分

貴家の系図上、牛福通直はいつ死んで、死因は何と書かれていますか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 15時50分

通宣(左京大夫)
                                             
通直(形部大夫)                                    通兼 (宍戸)
             
通勝           通秀
                                    
              通就   通隆    通正    通方     通宗
                                   
                                  通親
                                            
                                  通時   通宗    通遠
                                                
                                                通貞

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 16時59分

山田家は元小早川の家臣です。お送りした系図は記憶等です。元となる系図は実家の方へ有りますので相違があると思います。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 17時04分

通直に刑部太夫の官途名が付いているのですか?

宍戸は通直に付いているのですか?
通兼に付いているのですか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 17時12分

通直は天正15年に亡くなっていることになっています。死因は記憶ですが自害となっていたと思います。ー済みません。手元に現物がないので。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 17時19分

山田家の系図は実家にあるのですか?

山田家の墓は竹原にありますよね?

河野牛福通直が没した時の当主は山田源次郎になっていませんか?
小早川隆景から三千石を拝領した大身ですね。
山田源七、山田内善政次らの時代ではないでしょうか?
この時の山田家の家来は家老が3人、中小姓組が10人、徒士組10名の大所帯ですね。
もちろん、牛福通直没後の養子擁立にもからんでいる家と思われます。

伊予から河野家一統が竹原に流れてきたときに住む場所を提供したのが領主の山田家とされます。

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 17時32分

河野牛福通直の死因が「自害」なら正しいですね。

伊予の「河野系図」の殆どが牛福通直死因を病弱で「病死」とします。

これは河野家の家本とされる「予陽河野家譜」の最後に「病弱で有馬温泉に行きついでに高野山に登り家を断絶したことを先祖に謝り、帰って来た竹原
で力尽きて病死した」と書きますのでこれを信じて
系図を作った家が全部間違えています。数百とも云われる「河野系図」の殆どが「病死」とします。

「自害」と断言しているのは長州へ移動した河野系図と、伊予の「河野黒川系図」のみでした。
貴家の系図で3本目となります。とても貴重です。

松山市史も病死説を採りますが、「生害」ではないのかと云うと、その説も知っていますが多数決で決めましたとのこと。

松山市の歴史は多数決で決めるようです。変なの?

ちなみに通直が湯治に有馬温泉に行ったのも高野山に登ったのも後世の「予陽河野家譜」の筆写のでっち上げです。高野山の通直の慰霊碑は通直が死んだ翌年、母親の永寿が建てたものです。この時あと養子となる「通軌」と思しき人物が同行しています。

女人禁制の高野山へなぜ女性が登れたのか不思議です。母親だけではなく世話する下女も3人同行しています。せっかくだからと思ったのか3人とも生前戒名を貰ってます。

貴家の元祖が龍泉院にあるのが気になります。
龍泉院は小早川家の宿坊です。
毛利家の宿坊は高野山安養院です。
金剛三昧院と河野家宿坊はこの寺の奥数十M先です。

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 18時02分

山田家はそう聞いていますが、母も亡くなり山田監物重次のことしか名前を聞いていません。たしか、重吉が2代続いていたと思います。古文書等は県に寄贈したように聞いています。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 18時15分

ちなみに通直が湯治に有馬温泉に行ったのも高野山に登ったのも後世の「予陽河野家譜」の筆写のでっち上げです。高野山の通直の慰霊碑は通直が死んだ翌年、母親の永寿が建てたものです。この時あと養子となる「通軌」と思しき人物が同行しています。
女人禁制の高野山へなぜ女性が登れたのか不思議です。母親だけではなく世話する下女も3人同行しています。せっかくだからと思ったのか3人とも生前戒名を貰ってます。
貴家の元祖が龍泉院にあるのが気になります。
龍泉院は小早川家の宿坊です。女人禁制なのに参拝へ行けるのかなっては私も気になっていました。
龍泉院に関してはあくまでも始祖の御位牌ではありませんから河野通直の後の事ですので浅野、小早川、毛利の家臣として龍泉院に参ったのだと思います。(憶測)

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 18時32分

そうですか。山田家は小早川家臣の山田でしたか?
なら、牛福通直没後に山田家は男子がいないので、河野一門の南家から養子を迎えたことになっていませんか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 18時33分

【離覚院殿前因州太守松厳貞公禅定門 高野於山泰雲院大日碑 河野因幡守通就の位牌があり、系図では河野通直→河野通秀→河野通就となっております】
は貴家の情報ですよね?

なら河野因幡守通就は戒名離覚院殿前因州太守松厳貞公禅定門で貴家の遠祖ではないのですか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 18時40分

河野通就の位牌は当家の物です。他にも有りましたが火災にて焼失したようです。残ったものがこれだったようです。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 18時57分

つかぬことを聞きますが貴君は
以前のハンドルネーム「鈴姫」さんですか?

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 19時22分

鈴姫さんではありませんよ。以前にメールしたことは有りますが、あの方とも話したいとは思っています。アドレス知ってらっしゃいますか?やはり河野の事をお調べになられている方ですか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 20時19分

ルーツ探しって面白いですね!先般も道後へ行き湯築城跡へ行きました。古本屋で数冊本を購入しました。研究されている会の冊子も有りましたが購入はしませんでした。後悔しています。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 20時36分

鈴姫さんではないのですね。
全く貴家と同じ通直跡の系図を持っていましたのでてっきり同じ人かと思いました。

投稿: むーみん | 2016年11月23日 (水) 20時48分

そうなんですか!是非ともご紹介頂きましたなら幸いで御座います。むーみん様は以前のハンドルネームは?出来れば直接メール交換してご教授お願い致します。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月23日 (水) 20時54分

むーみん様
お聞きして良いですか?九州に河野の御典医だったという人がおられますが河野に御典医は居たのでしょう?御典医は江戸時代徳川家が発祥ではないでしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月24日 (木) 00時12分

河野の御典医と云うのは知りません。
基本的にはいないと思います。
おっしゃるように御典医は徳川将軍家の固有な名称です。後に殿様の主治医として各大名が使い、さらに後、偉い人の主治医とを御典医として言い方が拡大したとされます。
河野家は大名家としては江戸期にはありませんから河野家御典医の表現はないでしょう。

投稿: むーみん | 2016年11月24日 (木) 05時38分

むーみん様
河野因幡守通就は戒名離覚院殿前因州太守松厳貞公禅定門と言う御位牌はどうして高野山龍泉院に過去帳が残されていたのでしょうか?色々考え方があると思いますが、河野家の宿坊にしていたのは上蔵院であり龍泉院(小早川)の寺院にも過去帳があるのは……?です。通就は河野通直以降に亡くなっていますが小早川か毛利かの家臣になったから龍泉院に参ったのでしょうか?むーみん様の率直な御見解をお願い致します。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月24日 (木) 09時48分

河野 因幡守
津波村 住
天正十六年九月二日卒
号 松厳貞公

と貴家系図には書いてありませんか?
系図上は刑部太夫通直の孫になりませんか?
親は

河野 通秀(信秀)

河野 対馬守
又号 信秀
童名 亀千代丸
芸州山県郡津波村 住

と書かれていませんか?

牛福通直は刑部太夫を名乗りませんので、貴家の通直は牛福通直とは別人と考えられます。

「芸藩通志」では、
「津浪村河野氏」
「伊豫河野通直、天正中、賀茂郡に来居る、其子通秀ここに移る。今の秀右衛門まで八代。」
とあります。

この書は文政8年(1825年)に完成したものです。
牛福通直没から250年経って書かれていますので
通直を取り違えたものと思われます。
通直の実子がいれば宍戸から養子を迎える必要はありません。

もっとも、政治的に勘ぐれば、通秀(信秀)は本当に通宣の子であったが、通宣は毛利小早川の意にならない人物だったので牛福通直没後宍戸家の領地
津浪村に預かっていたことは考えられます。
河野家は通宣の室として永寿を送り込まれた時から
毛利家の傀儡となります。さらに傀儡を強固とするために通宣の跡を牛福通直としますが、この人物は通宣の実子ではなく、池原家や来島家から迎えたと
されます。通軌を養子にしたのは、毛利の意になる人物でお家再興の場合に備えたものと思われます。
通軌養子は毛利、小早川、宍戸、母親永寿がかかわったと想定されます。通軌を養子にし、牛福通直の室(吉見殿の娘・矢野 河野通直と天正9(1581年)結婚)を大野毛利家へ再嫁させることまで決めた可能性があります。

河野 通秀(信秀)は邪魔な存在だった可能性があります。信秀ともされるのでこれは信長のヘンイを受けた可能性があり、毛利家にとっては危険人物です。
そのような人の子、刑部太夫通直を河野家の跡継ぎ
にするのは危険です。

よって貴家は正史から消された河野家の可能性があります。貴家の処理を任されたのは小早川と思われます。通秀、通就ともに名家河野家の一員なので、本来は上蔵院に届けてあげるべきですが、家紋断絶のこともあり、河野家宿坊龍泉院に届けでたと思われます。
「高野山泰雲院大日碑」と貴家系図にあるように
位牌は龍泉院と繋がる泰雲院に安置したと思われます。調べないと分かりませんが泰雲院は小早川隆景の法名ですので、小早川家が建立したのでしょう。
このことから大切には扱われていますが表に出てきてもらっては不都合だったのでしょう。

通就はその名の通り毛利元就からヘンイを受けたものと思われますので、毛利家の一員扱いとも思われます。死んだときの戒名は単に「松厳貞公」だけと思います。あとの時代になって子孫の誰かが箔をつけるために離覚院殿前因州太守松厳貞公禅定門と
長たらしくします。法事の時に大枚払って戒名に箔をつけることは現在でも行われ、河野家の他の人でも多くみられます。
この戒名を分解しますと、
離覚院殿=院号
前因州太守松厳=道号
貞公=戒名
禅定門=位号
からなっています。
通常はどの宗派も4文字だけが基本です。

河野家の最後は胡散臭い話が多くありますので貴家の系図はそうした意味では重要なのです。
一度現物を写真に撮ったものが見たいものですね。
色んな人がきて添削したものが見たいですね。

何が目的で添削したかがわかるかもしれません。

正史から消された「秀吉暗殺未遂事件」に絡んでいるのかもしれません。


投稿: むーみん | 2016年11月24日 (木) 12時04分

【訂正】

家紋断絶のこともあり、河野家宿坊龍泉院に届けでたと思われます。

家門断絶のこともあり、小早川家宿坊龍泉院に届けでたと思われます。

投稿: むーみん | 2016年11月24日 (木) 12時11分

むーみん様
有難う御座います。むーみん様の御見解非常に納得出来ます。実家へ帰るのは12月になりますが早々に系図を写真撮影してお送り致します。送る場合はどの様にしてお送りしましたら宜しいでしょうか?また今後も御指導御鞭撻の程宜しくお願い申し上げます。1月初旬には叔母の法事が執り行われる予定で御座います。その節に同様な河野家を調べておりますところの従兄弟にも、いかがで御座いますでしょうか。むーみん様の御見解を伝え話してもよろしいでしょうか?大変喜ぶと思いますが!

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月24日 (木) 18時20分

私の見解は個人的なものですから、この程度でよければ話して頂いて構いません。
連絡方法はまたこの欄にご連絡頂ければ結構です。

なお、ついでと言ってはなんですが、系図の写真と
位牌の裏表と家紋の写真も頂ければ研究が進みます。

また当方は学者でもありませんし、単なる伊予の中世を探索しているだけです。

投稿: むーみん | 2016年11月24日 (木) 19時16分

ありがとうございます。もう一つお聞きして良いでしょうか?広島縣安芸高田市吉田の土居家は河野に関係はありますでしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月25日 (金) 12時40分

私は広島縣安芸高田市吉田の土居家は存じあげません。土居家の方が我が家は河野一門だと言うなら、河野一門に土居家はありますから間違いないでしょう。

投稿: むーみん | 2016年11月25日 (金) 13時03分

ありがとうございます。現段階では私どもは河野の末裔と認識しておけば良いですか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月25日 (金) 13時27分

如何でしょうか?結論ではなく、むーみん様の現段階で構いません。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月25日 (金) 15時12分

一次史料を確認できない現段階ではなんとも言えませんが、状況的には河野家末裔の可能性は非常に高いと思えます。

投稿: むーみん | 2016年11月25日 (金) 19時23分

わかりました。有難うございます。出来るだけ早急にご依頼のものをお送り致します。位牌、系図等写真になるかと思いますが。さて、当家の場合何系統の河野家となりますでしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月26日 (土) 18時22分

現段階ではよく分かりません。

牛福通直の子ではないことは確かでしょう。
理由は単純です。
牛福通直は天正9年4月に婚姻します。
それから6年後には自害しますので、婚姻生活は6年間しかありません。たとえ第一子を天正10年に生んだとしても天正15年では4~5歳です。
貴家系図は通直の子として河野亀千代丸通秀(信秀)としさらにその子は河野因幡守通就(天正十六年卒死)としてあると思います。

これは5才の赤ちゃんがまた赤ちゃんを産んで、生んだとたんにその子は死ぬ(天正16年卒)こととなりますので現実的にはありえません。
妾に子供を産ませても牛福は18才で正室を迎えていると思われますので数年程度しか違いません。
通直は24才で死んだとする系図と34歳で死んだとする系図がありますが、私は24才だと思っています。
天正9年の婚姻は毛利家の「通直公の嫁を大船に乗せて厳重に警固の上送り届けよ」との毛利輝元から児玉四郎兵衛へ命令書簡が残されていますのでこれは動かせません。

で貴家な何流かとのことですが、現段階ではなんとも言えません。

河野亀千代丸通秀(信秀)の情報が足りません。
いつどこで何歳で死んだかわかればヒントがつかめるかもしれません。兄弟の通勝も同様です。

貴家系図は「伊予大西町越智予章記」から派生していると思われます。ただこの系図も同じように牛福通直から系図線を引きますので、上記と同様な理由で信用できません。

同予章記は通勝を河野亀千丸通勝(居越智郡竜岡村)と書きます。

まだまだ精査が必要です。

尚、急がば廻れで「小早川家臣山田家」の系図を追っかける方が答えが早く見つかるかもしれません。貴家と山田家は天正15年以降近い関係を保っている感じがします。婚姻を繰り返しているかもしれません。婚姻する相手はそれなりの理由がありますので山田家のかっての婚姻関係がわかれば相関関係がわかります。
戦国時代は好きとか愛とかで結婚しているわけではありません。すべて政略結婚です。気に入った女性がいれば妾にすれば良いだけの時代です。

現代の常識で江戸期以前の婚姻関係を理解すると間違いを起こします。


投稿: むーみん | 2016年11月26日 (土) 20時03分

信秀(通秀)が通宣の子供であり、通就が信秀(通秀)の子供であるとしたら辻褄が合います
通宣1522~1581,信秀(通秀)1556~1575,通就1572~1588です。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月26日 (土) 23時48分

「通宣1522~1581,信秀(通秀)1556~1575,通就1572~1588です」

は何に書かれているのですか?
貴家の系図にきちんと生没年が書かれているのでしょうか?

投稿: むーみん | 2016年11月27日 (日) 06時08分

和暦で書かれています。非常に読みにくいですが。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月27日 (日) 08時39分

書いてあるご先祖と勝てないご先祖がありますし、書いてあっても読みにくいご先祖がいます。墨書きですので滲んだりもしています。全般的に読みにくいです。過去に調査に来られた役人が書いたのかも知れません。多分それが真実かも!

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月27日 (日) 09時21分

生没年が貴家の系図に書かれているのであれば、
河野亀千代丸通秀 信秀は河野四郎左京大夫通宣の子の可能性があります。ここで母親が問題ですが、妾なのか、大友氏の娘かどちらとも可能性がありますね。どちらにしろ、毛利の血を入れたいので永寿が再婚する時には廃嫡し、牛福通直に家督相続権を与えてと考えれば辻褄はあいますが一次史料が見つかりません。

投稿: むーみん | 2016年11月27日 (日) 17時05分

むーみん様   おはようございます。1570年前後に河野良久と言う人と1475年前後に河野信秀と言う人はお手持ちの資料で存在していたのでしょうか?河野宗家とは不明です。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月29日 (火) 08時18分

(1570年前後に河野良久と言う人と1475年前後に河野信秀と言う人はお手持ちの資料)は存じあげません。

河野良久は初耳ですがどのような方ですか?

投稿: むーみん | 2016年11月30日 (水) 06時48分

実家の近くに(加計町津波)同じ河野姓の方が居られ、先祖は河野通有と言われています。当家とは血縁はありません。会う度に御自分の血筋は伊予河野の関係であると豪語されます。凄いお家柄ですね!とお答えはしています。但し一次資料や御位牌、過去帳、等は無いようです。また、当家の先祖墓(石のようなものとか、文字の読めないような数基の墓を)その方のご先祖様の墓だと言われているようです。それでお聞きした次第です。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年11月30日 (水) 08時05分

何ら史料をお持ちでない家でした虚実はなんとも申しあげられません。通有以降ですと分岐した末裔は数万人いると思います。
通有以降の人名記録されていないのであれば、まず
分かりません。

投稿: むーみん | 2016年11月30日 (水) 16時21分

むーみん様
おはようございます。初歩的な質問ですが、「築山本」の読み方(どの様に読むのでしょうか?)とどの様な本がお勧めでしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年12月 4日 (日) 11時40分

「築山本(つきやまぼん)と読むと思いますが。

河野牛福通直跡を継いだとする宍戸氏の養子が河野姓ではまづいとしたのか嫁の実家の築山を名乗ったたとか。
築山家に残されている伊予河野家本は豫洲と本と区別するようです。伊予史談会は史料としてはまともには取り合わないそうですが、私は順番が混乱しているだけで事実も多く含まれていると見ています。

また、河野関係の本は数えきれないほどあります。

どの本が筋が良いか否かは、景浦親子、川岡勉、石野弥栄、西尾和美先生たちの本を読んで、その出典史料に当たる方が早いでしょう。

投稿: むーみん | 2016年12月 4日 (日) 16時49分

鈴姫さんという方の系図、解説を目にしました。信頼性はどの程度あるのでしょうか?また河野黒川系図、伊予温故録、正岡一族はどうでしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年12月 5日 (月) 19時58分

鈴姫系図と貴家系図はほぼ同流と思われます。
源流は黒川系図と思われますので少なくても3家は信じている系図と思われますが、信頼性は現段階ではなんとも言えません。

正岡系図は黒川系図の派性で扱われているかと思われます。

伊予温故録は間違いが多いので「取扱注意」です。

投稿: むーみん | 2016年12月 6日 (火) 08時04分

3家は信じている系図との3家とはどの3家でしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2016年12月 7日 (水) 22時22分

鈴姫家と貴家と黒川家です。

もう少し文章を読み込む力を持って下さい。

投稿: むーみん | 2016年12月 8日 (木) 04時31分

むーみん様
昨日は大変すみませんでした。無知蒙昧で読解力が無くご迷惑をお掛けしました。すみません。
因みに通直の後に(江戸期)河野通時(久左衛門)と言う人のお名前が過去帳に記載されていました。

投稿: 島谷忠佳 | 2016年12月10日 (土) 17時18分

(江戸期)河野通時(久左衛門)は

河野久左衛門通時
出家 号 教意
正保 二(1645) 乙酉 正月廿五日(没)


の人ではありませんか?

系図を補強していって下さい。

バラバラのDATAは必ずつながってきます。
横に時間軸を取り、縦に人名の図を作成していけば最後には失われた系図が再現できます。

時間はかかりますが努力をしないと前には進みません。先祖探しは数学のように先人に聞けば答えを教えてもらえるものではありません。

手許の情報が一番大事で、他は補強資料でしかありません。補強資料は玉石混淆ですから玉と石とを見分ける力は自身で付けなくてはなりません。

数多くの資料に当たることですね。

投稿: むーみん | 2016年12月11日 (日) 08時20分

こんばんは、少し見ていないうちに、たくさん書き込みがあり、びっくりしました!
島谷さま、むーみんさまのやり取りにワクワクしました。系図があるというのは羨ましいです。
資料は虚偽も多いのですね…。

先日、叔父が愛媛に行き、先祖の墓は調べてくれたのですが、本家が不在で資料などは確認できなかったとのこと。
今度は私も愛媛に調べに行きたいと思います。

投稿: 戒能 | 2016年12月29日 (木) 02時14分

戒能様の当掲示板、他のブログの書き込みを拝見しました。高須賀家の家系を調べています。戒能氏は、おそらく高須賀家の先祖の主家と考えています。是非、情報交換、ご教示をいただければ有難いです。よろしくお願いします。

投稿: 高須賀 | 2016年12月29日 (木) 05時37分

戒能さんへ

先祖の墓とはどこにある墓のことでしょうか?

また本家も現地に実在しているのでしょうか?

場所と寺の名を教えて頂けませんか?

投稿: むーみん | 2016年12月29日 (木) 13時50分

こんばんは、いつもスマホで見ているので、長くて見づらくなってきました(^^;;
3月に愛媛に行くことにしました。まー、私は本家を直接知らないのでどこまで調べられるかはわかりませんが。愛媛にいる叔母も頼りつつ回ってきます。

高須賀様
見つけてくださりありがとうございます。何か共有できれば嬉しいですね!私がわかることを書きますね。
私の曽祖母が高須賀で、曽祖父が八木の長男で、曽祖母と結婚し、八木の本家を継ぎました。(私は両親がいとこ同士なので、曽祖父母の1組(Aとします)が同じなんです。系図めちゃややこしい。もう1組Bが戒能なんです。)曽祖母の実家は温泉郡則之内村惣田谷で、屋敷名をなかぶといい、土蔵、長屋の大きな家で、庄屋を務めたものがおり、苗字帯刀を許されたようです。曽祖母の父が伊五郎で、その弟に浦太郎がいたことまではわかっているのですが…。その先が、わからないんですよね。
高須賀は曽祖母の兄の源吾が継ぎました。源吾は三内村で自治関係に携わり、道路の建設などにも関わっていたようです。

むーみん様
先祖の墓はあちこち点在しているんです。八木の本家は、井内村の北間にありました。墓地に墓は7つあったそうなので、その頃から分家したと思われます。ただ、そこを曽祖父が手放しているので、もうわからないです。私の祖父の曽祖母の実家も戒能で、もう1組(B)の方の祖父の祖父の実家も戒能なんです。(^^;;
ただBは婿養子に入っているので、戒能としてのお墓ではありません。こちらは謎に包まれすぎてよくわかっていません。戒能吉次郎という名前だけわかっています。また、Aも戒能弁次郎という人の子供を養子にしています。弁次郎がどこの誰かもよくわかりません。吉次郎が婿養子に入った先を本家として子孫が継いでいますが、戒能からは離れてますしね。
すみません、親戚関係がややこしすぎて、私も書いていてわからなくなってきました…。

投稿: 戒能 | 2017年1月20日 (金) 01時10分

むーみん様
追記です。質問に対して、トンチンカンなことを書いてますね(^^;;
叔父が行こうとしたのは、戒能吉次郎が婿養子に入った先の本家です。もしかしたら、戒能に関するものも本家には伝わってるかもしれないかとも思うんですけど…。
ちなみに八木の本家には、刀と鏡が伝わっていて、廃刀令で刀は手放さなくても良かったのに手放してしまったとか。鏡はまだあるかもしれませんが、これも長男の祖父ではなく弟が本家を継いでいて、私は全く面識がないのでわかりません。
あるなら見たいんですけどね…。
私の代で調べるのはなかなか厳しい。両親の兄姉たちが生きている内になんとか少しでも調べたいと焦っています。

投稿: 戒能 | 2017年1月20日 (金) 01時39分

追記です。祖父の曽祖母(A)の実家は戒能で、それは国木にありました。屋敷名が間口で、虎太朗が住み、弟の豊蔵が新宅にいたとのことです。曽祖父と祖父は国木の屋敷へ時々出かけいたそうです。
ただ、戸籍を見ると、祖父の曽祖母の父もまた八木家なので、祖父の勘違いで、曽祖母の母の実家だったのかもしれません。
この辺りがよくわからないんですよね。(^^;;

投稿: 戒能 | 2017年1月20日 (金) 08時59分

伊予戒能家の元々の墓は現在では井内の大通庵とされます。その周りに現在でも8軒、戒能氏が居るそうですからそちらで聞かれたらわかるかもしれませんね。こちらは江戸期に帰農した庄屋系の戒能氏と思われます。但し、戒能宗家は松山に移動されたそうです。

戒能通森(盛)が拝領した所領は井内、須之内、南方村(いづれも東温市)とされますので、子孫がそれぞれの地域に分布したと思われます。
八木も高須賀も元々、戒能氏の臣下ですので江戸期は助けあって婚姻を繰り返したと思われます。
現在も東温市に戒能、八木、高須賀子孫が現存しているのがその証左と思われます。

私は戒能氏の宗家筋は伊予を離れた戒能通孝(都立大学教授)家ではないかと思っています。
彼の子は通厚(名古屋大学名誉教授・早大教授)、其の子、通弘(同志社大学準教授)と連なっています。ただこの家には系図は残ってないようです。

投稿: むーみん | 2017年1月20日 (金) 18時51分

戒能 様

お返事ありがとうございます。やっと会えましたね!(笑)。これも同族の血を引き、先祖の導くご縁と心より感謝しております。是非、情報交換をお願い致します。高須賀家のこと、戒能家のこと、私も出来る限りの協力をさせて頂きます。

お話を伺っていると、曽祖母様のご実家は、則之内村高須賀家のご本家(庄屋家)のようですね。源吾さんのお名前は、〔川内町誌〕、〔川内町新誌〕、〔愛媛県紳士録〕等で拝見をした記憶があります。資料を探して再度確認してみます。則之内村高須賀家のご本家であれば、もしかすると、〔伊予不動記大系図〕の高須賀氏系図が同家の所有していた系図なのかも知れません。

則之内村高須賀家のお話を系図に直すと、次のとおりでよろしいのでしょうか?。
①四親等
長男・伊五郎 さん
次男・浦太郎 さん
②三親等(伊五郎さんの子)
長男・源吾 さん
長女・女子(曽祖母様)八木本家へ

むーみんさんのお話にもあるように、〔豫陽河野家譜〕、〔戒能略譜〕には、戦国時代の天正頃、南方村高須賀家(庄屋家)は、河野伊予守通直の重臣戒能備前守通森(盛)の「家人」等として記されています。則之内村高須賀家と南方村高須賀家の関係は、現時点では不明ですが、いずれかの時期に分流した同族であることは間違いないと思います。

投稿: 高須賀 | 2017年1月21日 (土) 01時31分

むーみんさま

大通庵にも行きたいですね。ただ遠くて、今回は時間的に難しそうです…。
通孝氏は20歳頃に、一度だけ松山にこられ、その時にAの祖父がたまたまお会いして話をしています。面識があったわけではありません。祖父はこの人があの戒能の子孫かと憧れを持っていたようです。通厚氏は通孝氏が愛媛に行ったことがないと思われていたので、2度ほどメールをやり取りさせていただきました。ほとんど愛媛に行かれたことがなく、先祖のことは詳しく存じていないようですね、残念。

そうそう、南方の川上神社の麓に、八木家の親戚がたくさん住んでいたそうです。Aの祖父の妹もここに住んでいました。この妹が、Bの戒能吉次郎の次男に嫁いでいるんですよ。ここもややこしい…(^_^;)

ちなみにAも曽祖父の代で井内から松山に出ています。その時に井内の八木の屋敷も田畑も角谷さんという人に譲っています。
Bの戒能吉次郎は婿養子に入った後、鷹ノ子で温泉宿をしていたそうです。(のちに廃業)

投稿: 戒能 | 2017年1月22日 (日) 09時19分

高須賀様

ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いいたします。
はい、系図はその通りです。
曽祖母ツナの戸籍を確認しました。
伊五郎は、則之内160番地に住んでいました。そういえば、誕生日も調べていたのでした。改めて見たらツナが1889年生まれで源吾が1891年生まれ(推定)なので、源吾の方が弟ですね。
祖父が源吾の家に居候していたこともあり、源吾の話はよく出てきました。川内町誌の資料も見ていて、名前を見つけてびっくりしていました。あ、伊五郎も、墓の管理者名に名前がありました。
ツナは私も会ったことはあります。(寝たきりでしたが) ツナは純金小判を持っていたというので、何か困った時のために、高須賀から持たされていたのかもしれませんね。これももうありませんが…。
そうそう、則之内村の保面にも、土蔵のある大きな高須賀家があり、惣田谷の高須賀とは近い親戚だったそうです。

それから、高須賀の先祖は平家に仕えていて、命からがら逃げてきた…という話を伝え聞いています。
私がそれを聞いた当初、源氏派だったので、なぜ平家?と思いました。最近平安時代を調べていて、個人的には源氏側で、平家の支配となり平家に仕えざるをえなくなったのではないかと勝手に想像しています。言い伝えが本当にそれだけしかないので、河野家が反乱起こした時に源氏につき、平家に裏切り者として追われたのか、平家が滅んだ時に源氏に平家の残党として追われたのかはわかりませんが。私の思い入れがどうしても平家より源氏なので、前者と思いたいです(笑)

投稿: 戒能 | 2017年1月22日 (日) 11時52分

戒能様

伊予高須賀家の出自自体に関わる系図で発見出来ているものは、現時点で2つしかありません。いずれも近代に編纂されたものに収録又は筆写されたものです。原典史料があったとは思われますが、やはり現時点では不明です。

2つの系図は、その内容が一致しませんが、いずれも清和源氏の子孫とすることや、要点要点でキーワードに類似性が認められます。

確かに、伊予高須賀家のご子孫の一部に平家落人伝承があるのは承知しています。私としては、源氏、平家のいずれでも、自分の本当の先祖を知りたいと考えています。

2つの系図は、以下のとおりです。
①〔川内町誌〕収録の高須賀氏系図
南方村庄屋高須賀家のものと推測
②〔伊予不動記大系図〕収録の高須賀氏系図
則之内高須賀家のものと推測

①は、愛媛県立図書館の郷土資料で、デジタル公開されていますので、スマートフォンでも閲覧可能です。

投稿: 高須賀 | 2017年1月22日 (日) 17時40分

高須賀様

情報ありがとうございます。高須賀の系図は2つあるんですね。①は存じております。②は知りませんでした。見てみたいですね。
平家落人伝承、他にも伝わっているのですね!
高須賀の付き合いがなく、口頭でしか聞いていないので、少し半信半疑なところもありました。
本当の先祖は知りたいですね。

投稿: 戒能 | 2017年1月22日 (日) 21時36分

戒能様

戒能様より、さらに則之内高須賀家のことについて、色々とご教示頂きたく思います。しかし、既に故人の方とは言え、わずか数代前のご先祖様、ご親戚様の情報をネットで公開するのも難しいとも考えます。

もしよろしければ、機微に触れる情報交換のため、メールアドレスを交換しませんか?。直メールでなくて結構です。私のメールアドレスを付けさて頂きます。基本的には、スマートフォンでメール確認をしています。よろしくお願い致します。

私は、伊予高須賀一族、下総高須賀一族の各家系について得た情報を、順次、網羅整理しています。そうすることによって、伊予・下総の同族性を立証し、一族の本当の先祖を発見したいと思っています。

投稿: 高須賀 | 2017年1月22日 (日) 22時09分

設定方法が悪いのか、メールアドレス設定できません。メールアドレスの交換方法を考えてみます。

投稿: 高須賀 | 2017年1月22日 (日) 22時18分

下記アドレス先ページの最初の高須賀(青色)からメールの送信が可能です。
もしよろしければよろしくお願い致します。

http://hiro45314.blog.fc2.com/blog-entry-63.html?sp&m2=res

投稿: | 2017年1月22日 (日) 22時26分

高須賀様

ありがとうございます。
あ、先ほど別サイトのカキコミを拝見しました。
ちなみに…私の持つ高須賀の情報は、前に書いたくらいで、それ以上のことはわかりませんよ?(^_^;)
曽祖母も源吾も市内へ出ていますしね…。
あとは本当にたわいもない話で、曽祖母が裁縫が得意だったとか、そんな程度です…。
両祖父母が生きていればよかったんですけどね。

投稿: 戒能 | 2017年1月22日 (日) 22時57分

〔伊予不動記大系図〕収録の高須賀氏系図など、情報交換ができるかと。情報は何気ないことでいいんです笑。出会いが全てです。

投稿: 高須賀 | 2017年1月23日 (月) 06時25分

戒能様

確かに、伊五郎さんのお名前は、源吾さんとともに〔川内町誌〕に記載がありますね。すごいなあー感動です。

源吾さんは、直系尊属ではないから戸籍が取れず、誕生日は記録等より推測ということでしょうか?。

伊五郎さんの生没日はお分かりになってるのですか?。お話を伺ってからずっと考えているのですが、伊五郎さん…則之内・高須賀伊兵衛家の方なのでしょうか?。

私の血族上の四親等尊属である盈藏は、元治元年4月21日生、昭和2年3月21日没(64)ですので、伊五郎さんも同じくらいの世代なのでしょうね。もう少し上かな?。

曽祖母様が嫁がれたのが、八木本家ということですが、当時の八木本家のご当主様(曽祖母様のご主人様?)のお名前もまさか〔川内町誌〕に記載があるのですか?。

投稿: 高須賀 | 2017年1月23日 (月) 20時18分

高須賀様
戸籍は親戚がとったものをもらいましたが、曽祖母の結婚後からなんです。なので、伊五郎も名前と住所しかわかりません。
曽祖母が1889年(明治22)生まれの長女なので、20歳の子供とすると、伊五郎は1869年(明治2年)くらいの年だと思います。年代的には近そうですね。
八木の本家の名前は載ってなかったと思います。

投稿: 戒能 | 2017年1月25日 (水) 09時03分

戒能様

回答ありがとうございました。
なるほどですねーやっぱり家系調査は、時間との勝負ですね。時間が経過するほど分からなくなっていきますね。戒能家の歴史・家系も分かるといいですね。できる限りの協力をさせていただきます。

投稿: 高須賀 | 2017年1月25日 (水) 11時26分

高須賀様

私が直接連絡を取れる愛媛の親戚は、もう1人しかいないので、あとはどこまで動いてくれるかですね。興味がなければ動いてくれないかもしれません。なんとか私が直接愛媛のその他の親戚たちに連絡取れたら良いのですけどね。
一応親にも、高須賀の先祖の墓の場所を聞いてみましたが、さすがにわからないと言われました。

投稿: 戒能 | 2017年1月25日 (水) 21時35分

戒能、高須賀両氏、盛り上がっておりますね。しかしながら、真の河野家の血筋は一切無いご両家が盛り上がられることは良いことと思いますが、情報交換されるのなら、お互いに直接メール等でなされたら良いのでは?

投稿: | 2017年1月27日 (金) 00時48分

1/27日の投稿は投稿者の名がありませんので事情はよくわかりませんが、「真の河野家の血筋は一切無いご両家が」との人はこのブログを使用するなと言わんばかりですが、認識不足と思われます。
機微に至るものは直に連絡を取り合うのが宜しいですが、広く新情報を集めるには、公開されているNET情報が現段階では最適です。

そうしないと埋もれた情報は掘り起こせません。

河野家を調べるためには周辺情報は欠かせません。
ましてや「伊予戒能氏」は河野家分家ですので「血筋が無い」とするのは間違いです。高須賀氏は河野家臣です。

投稿: むーみん | 2017年1月27日 (金) 09時28分

河野家の血を引いていると聞かされ、祖先について調べております。
何かしら情報が得られればと思い投稿させて頂きました。

曾祖父の残した家系図(簡易な写し)を見ると私共は、河野通直、村上通康、河野通政、河野通亘と同時代に生きた豫洲家 河野通能の子孫のようです。

ネットなどで調べた情報では、河野通能は1555年頃まで高峠城城主でありその後、柳原殿に移っているようです。(その後高峠城は、石川家→金子家の支配下に)

その後通能の一子、河野通胤が福田の姓を名乗り、豊臣秀次に仕えてその一字を賜り、福田秀胤に改名。
その後、秀次が謀反の罪で自殺(秀次事件)した際、所領を没収され1616年に豊後(大分)府内に移動したときいております。

長々と書きましたが、知りたいのは上記河野通能とその子通胤についてです。
私の調べ方が悪いのかもしれませんが、河野通能及び、通胤については、情報が殆どないため、本当に実在したのかよくわかりません。
何か情報はありませんでしょうか。

河野通能の父とされる河野通在には、実際には子が無かったと言われ、河野通政、通宣、通能、石川通昌を養子としています。
その中で通能は高峠城城主に選ばれており、当時の新居郡の状況を考えると重要なポストであると思われます。


河野通政、通宣は惣領家河野通直の子供であると言われているようですが、この通能も通直の子である可能性はあるのでしょうか。

投稿: 長崎の河野家末裔 | 2017年3月15日 (水) 00時21分

河野通能は実在したと思われます。

御承知の通り、河野分家豫洲家系とされます。
父親は通在ではなく通存と思われます。
通存は子無きではなく、子らは

①河野通政(晴通)、
②河野(石川)通昌、
③河野通能(通直)、
④河野通宣(通賢)、
⑤河野(野島)通信(直信)
⑥河野通冬

と思われます。早世の通政を除き殆ど養子に出ていますから後世子無きとされたのかも知れませんね。
通能は高峠城城主の時、通直を名乗っていますが、これは河野宗家の牛福通直とは別人です。

ネット情報は別にして貴家の系図情報のみお教え頂けませんか?そうすれば史実に近づけるかもしれません。

河野系図は沢山あって解釈も多岐にわたりそれに出典不明のネット情報を加味するとグチャグチャになります。

あくまで一次史料を追わなばなりませんが、無い場合は出来るだけ古く、出所の確かなものをベースにせざるを得ません。

たぶん貴家のは古い系図の部分と思われます。

投稿: むーみん | 2017年3月16日 (木) 20時42分

「鈴姫」さんの情報は虚偽でした。

投稿: | 2017年3月19日 (日) 19時29分

はじめまして鈴姫と申します
むーみん様が博学なのですごく勉強になります
上記のコメントの方に虚偽と言われてしまいました
正直通史とちがう内容内容ですし
かなり勇気がいりましたが少しでも真実が知りたいという思いで公開しております
どなたか存じませんが虚偽の理由を含めて直接私どもに教えていただければと思います
私は人が生きていればどこかに足跡が残っていると思っています
大変だと思いますが貴家も含めてこちらにいらしておられる方々の系図が完成するのを心よりお祈りしております

投稿: 鈴姫 | 2017年3月24日 (金) 18時19分

鈴姫様へ

鈴姫情報は虚偽ですと書いたのは私ではありません。書いた本人が名乗った上で鈴姫情報が虚偽の理由を根拠を上げて説明すべきと思います。

私は鈴姫さんの系図は貴重な系図と見ており、研究の価値があるものと思っています。

鈴姫系図は河野流黒川系図と同根ですので、貴重です。尚、鈴姫さんと私は初めてではありません。
別ハンドルを使っているだけです。久しぶりですね(笑)

投稿: むーみん | 2017年3月24日 (金) 18時39分

お久しぶりです(◎´∀`)ノ
親切にしていただいたむーみん様が書かれてるとは
もちろん思てません
ルーツを探すのって楽しいですね
今やすっかりはまってしまってます
何冊も何冊も読んでやっと希望のワンフレーズを探し出せた時はものすごい空想の旅に出ます
その後真実追究で希望に寄せてはいけないと冷静になりますが心のどこかではやっぱり空想してますけどね(笑)

投稿: 鈴姫 | 2017年3月25日 (土) 13時05分

むーみん様
御無沙汰しております。
現在、鈴姫様に色々ご教授して頂いています。
鈴姫様は良くご研究されておられ、とても勉強になります。
鈴姫様と私のご先祖様は、どうも兄弟の可能性大のようです。故郷に帰った折に、系図を参照し確認しょうと思っております。新たな史実が発見出来れば、また情報提供させて頂きます。

投稿: 島谷忠佳 | 2017年3月26日 (日) 17時01分

島谷様へ

最初から指摘しておりますように島谷系図と鈴姫系図は同根だと思っています。その元は大西町予章記から派生したものと思われます。

通宣から直接系図線をつなげることと間に通直を差し込むパターンとがあり系図解釈上の紛乱を起こしています。

通宣直系を宗家筋とするか、養子牛福通直を宗家筋にするかにより後世の子孫たちの間で宗家解釈が複数出てきたものと思われます。

貴家系図も鈴姫系図も公表されていませんので「新発見」が出てくる可能性があります。

出来れば一次史料が欲しい所です。

頑張って下さい。

投稿: むーみん | 2017年3月28日 (火) 09時43分

むーみん様
先述、ご教授頂きました「大西町予章記」の正式名称とその資料、刊行物等ありましたなら、教えて頂けませんでしょうか?

投稿: 島谷忠佳 | 2017年3月29日 (水) 16時50分

「大西町予章記」は刊本はないと思います。

河野家ゆかりの長福禅寺の寺宝の「予章記」が原本と思われます。南明禅師の手になるものと思われますので、解釈が少し違いますが研究が必要なものでもあります。

投稿: むーみん | 2017年3月29日 (水) 18時35分

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